反骨精神を源に軽い冗談から重い本音まで・・・
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-僕は何も始めない。やめられない君と同じさ-
                (民名書房刊『退化論』より)


私は「もったいない」という感情を他人より多く持っているのではないかと思っている。なぜなら私が他人よりもめんどくさがりで他人よりも合理主義的だからだ。

しかしだからこそ「もったいない」という感情に侵されないように気をつけている。

「もったいない」は損を招くと思うからだ。


まず何かが壊れたときもったいないと思う。『物使い』という題の以前のブログでも書いた通り、私は物をいずれ壊れるものだと考えて、物が壊れたことによるマイナスイメージに余り捕らわれずに生きたいと思っている。

世の中これが出来な過ぎる奴が多いが、これはいわば自分の感情のコントロールだ。

もったいないなんて感情は

理性でコントロールできる程度のしょーもない感情だ


と私は考えている。ただでさえ物が壊れて何かしら損をしているのに、さらに気分まで落ち込んでしまうなど愚であるとしか思えない。もちろん愛着や物の価値によっては多少落ち込みもするだろうが、早く脱却することで次への一歩に繋げることが、楽しく生きるコツだと私は考える。
そういった意味で「もったいない」という感情は邪魔だ。

これに関しては、出来ることならもったいないを消したいと思う人も多いんじゃないだろうか。



他に「もったいない」が頭を過ぎる主な場面は、何かをやめる時だろう。この時の接頭語には「せっかく~のに」が欠かせない。
そしてその気持ちは、それまでの努力や結果が大きければ大きいほど強くなる。もうこれ以上は無理だとほぼ解っていてもやめられない。そして解りきっていた損をする。

それは人は無為に耐えられない

積み重ねた成功は人を縛る

ということなのだ。

某漫画を知っていればお気づきだろうが、これは

ギャンブル中毒と同じ現象なのだ


対象がギャンブルであれば、もともとギャンブルを危険視し不快に思って警戒している人々は、ここに陥ることを避け、またそこにハマっている人をバカにして嫌悪すらするだろう。
しかし、ことが「せっかく遠くまで来た」だとか「ここまで練習して頑張って来た」だと、すぐに同じ症状に陥るのだ。
遠出したついでに、近場でも出来そうな普段なら大して興味のないものをわざわざ見つけて散財し、いい経験になったと自分で納得する。
意欲がもう途切れてしまったにもかかわらず、失うことを恐れもったいなさに流され、死んだ様にただ頑張る。

無論、物事に粘りは大事である。少々のことで根をあげるようでは満足できるものはつかめないだろう。もったいないと思ってやめなかったおかげで成功することがないとは言わない。
しかし、もったいないといった後ろ向きな前進で大きなものを得ることができるとは思えない。かなり運が良くて何かを得ることができたとしても、やめなくて良かったという安堵が第一に来る。それは、前向きな姿勢であきらめずに勝ち得るものとは雲泥の差があると私は思うのだ。
ここに気づいていない人が私は多いように思う。

さらに言えば「もったいない」に対して「もったいなくないようにする」ということしか対抗策を考えられない人が多々いるのだ。そしてその人達は、「そのことをやめない」しか考えられない。それでドツボにはまっていくのだ。

だからここで「もったいなくないようにする」ために「物事の見方をうまく変える」ことが出来れば、発明家なりベンチャー企業家なりになることができるだろう。



しかし私が言いたいのはそんなことですらない!

そんなことは誰でも考える。できるものなら誰でもそうしたい。しかし一握りの人々しかそれが出来ないから、発明やベンチャーの成功がありえるわけだ。
うまくいけば勿論良いことだが、そうして何も思いつかなければ結局「もったいない」に別の形で捕らわれたに過ぎない。


なぜこうも人は「もったいない」ことに捕らわれてしまうかと言うと、おそらく人は

もったいないことをしてる(した)人が

極端にバカに思える


からだろう。

だから自分は決してそうなりたくはないのだ。そこだけに固執して物事を判断できてしまうほどにこの考えは私達にこびりついていると言っても過言ではないだろう。

でもそれは本来の有様とは違う。誰でも他人や自分にバカにされたくはないが、もっと大事なことは

自分の本当にやりたいことをやることなはず。

この際「もったいない」に侵されていてもいい、冷静に考えてみれば、生きるために不可欠なわけでもないのに、自分の意欲も湧かないことをもったいないからといってやめられず、微妙な気持ちで人生をすり減らしていっている人こそ本当に「もったいない」ことをしている奴だ。

もう一度言う。もったいなくてもいいのだ!
自分の本当に思った様に生きないのでは、そいつは誰のために、或いは何になろうとして生きているのだろうか?いや、その答えがあるのであれば、自分の意欲が湧かないことをやるとしてももったいないとは感じられないはずだ。


身動きのとれない状況や周りのことを考えての自粛的な行動ならまだしも、もったいないなどという自分の弱い心だけで自分を縛ることなどしたくはない。
たとえもったいなかったと他人に言われようとも、その時に自分の本当にやりたいことを信じてやることが一番大事だと思う。物事を続けるにしても、もったいないなどというつまらない理由ではなく、意欲をもってやっていきたいものだ。


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―Tis the season to be jolly but
  I hate Christmas
  I'm glad it only comes one time a year―
                         (#DECK THE HALLS/zebraheadより)


さて、まあクリスマスイヴなわけですが。
うん、まあ昔はね、この日にかこつけてタダでプレゼントがもらえる嬉しい日でしたがね。
ええ、まあ好きじゃないですよ今はもちろん。でもまあ意味は解っているつもりです。
とりあえず今の日本においてクリスマスは、クライスト(キリスト)は全く関係なく、サンタとトナカイとプレゼントで構成されています。そしてそこにケーキやらチキンやらシャンパンやら家族愛やら恋愛やら恨み嫉み妬みなどがトッピングされ、日本全国を挙げてのお祭り騒ぎとなっているわけです!

お祭りは私は嫌いじゃないですよ♪楽しいイベントですからね。気の合う仲間とでも、普段は変化のなかなか無い日常を送っていたとして、クリスマスというきっかけがあることによって集まって楽しむことができたりするわけです。そういう利点は確かにあります。

しかし問題は

この祭りがほぼ全員強制参加であるということです!

普通の地方で行われる祭りであれば、気が乗らなかったり祭りが嫌いな人は家に引きこもるなりどこか違う街へでかけるなりすれば祭りを避けることができます。しかし、クリスマスだけは別です!こと日本にいる限り何日も前から全国がこの日のために準備を行い、盛り上げようとしている中でその存在を意識せずにはおれません。なのでクリスマスを無視して過ごしたとすれば、全員参加の雰囲気がただようがゆえに

参加しないではなく、参加できなかった人

の烙印を押されることになるのです。

普通の日を送っただけでは

この日を楽しめなかったのだとマイナス判定される


様なことになってしまうのです。


これはさすがにおかしいですね。そりゃ楽しむ奴は好きなように他人に迷惑かけずに楽しめばいいけど、普通に過ごすことがちょっとダメな様な「せっかくクリスマスなのに」みたいな考えが蔓延してるのがどうも解せません!
まあそこも自虐的に笑いに持っていくチャンスとできるならば問題はないのですが。

そしてまたクリスマスという祭りにはなにかこう優先順位が高い人と一緒にいるべきでプレゼントをあげる(もらう)べきといったような義務が存在します。
そしてこれも全員参加なだけに全員に義務が課されているわけです。まあ二股なんかをかけていて勝手にピンチになるのは自業自得なのでなんとも思いません。しかしクリスマスの日に一緒にいる人が一番優先順位が高い人と必然的に見なされ、1人で過ごすのは大切な人がいない人・一緒に過ごせないかわいそうな人、と勝手に思われ自分でもなんとなくそんな気になってしまうわけです。また、子供にとっては素晴らしい権利であった嬉しいプレゼントも年をとるに連れ、あげていない(もらっていない)のは良くない(残念な)こととされ、結果

楽しむために考えたはずの制度が

楽しめない人を作り出している!!


という非常に矛盾した現象が起きているわけです!!!!

楽しむためにあるクリスマスという日が理由で、他の日なら問題ないことが許せない、悲しみや怒りのもとになるなんて、ほんとに自分の意思がなく周りに流されるままに感情を出して勘違いしているただのアレです!

だから私はこういうスタンスでいます。
今日でも明日でも明後日でも一週間後でも、重要なことは楽しむことなんだ、そして楽しみは強制するもんじゃない、と。
―子供がかわいいって?ああ、君にとっちゃ犬畜生みたいなもんだからね―
                               (民名書房刊『魔酔いの森』より)


私には長年結論が出ずにいることがたくさんありますが、その一つが子供がやらかした迷惑行為について、いったい誰を責めるべきなのか?ということです。

もちろん日本では子供は責任など自分でとることはできません!どれほど能力があろうと、責任は保護者に問われるもので、子供はどれだけえらそうなことを言おうと所詮一人前にはなれないのです。

とはいえ、実質的に責められるのは本人であるべきだろうという状況は多々存在するんではないかと思います。その意味で、責任を問われるべきなのは誰かということが今回考えたいことなのです。


まず、どこからが子供かということが問題です。法律的には14歳未満は処罰されませんが、これには子供の未来についての更生を社会的に期待している部分があるので、行為に対して純粋にどこかに責任を問えるのではないかという私の今回の考察には適用されません。

難しいところですが、さすがに高校生にもなればバイトもできて稼いでいける世の中なので、本人に対する他者の制限が難しく、良くないことをすれば100%本人を責めてもいいのではないかと思います。

主観的には、小学校高学年ぐらいから自己責任は問われてもいい気がしますが、さすがにその年の子に全ての自己管理を求めるのは厳しいかと思います。子供は基本的な能力について個人差がありすぎるので年齢という基準では区別しきれないというのが現実でしょう。

まあここでは便宜上、一応中学生以下を、無条件に自己責任100%とはされないという意味での子供扱いにすることにしましょう。


このとき、責任を問える対象は、

本人・保護者・環境

が考えられるのではないかと思います。
特別な条件は他にもありえるかもしれませんが、一般的なものを考えるとこの3つにいきつくのではないでしょうか。


例えばグレた子供ができたとして、高校生にもなって社会に迷惑をかける様なことをしていればそれは100%本人のせいです。
では中学生でグレたとすれば・・・もしかしたら親が飲んだくれで荒れ果てた家庭環境が原因かもしれません。グレるという虚勢をはらないと周りからさげすまれる環境なのかもしれません。そいういった保護者や環境がなければその人はグレて社会に迷惑をかけることもなく立派な中学生になっていたかもしれません。

しかし、似たような状況でも、グレずに頑張っている人はいるでしょう。その人は虚勢をはらずにイジメにあっているかもしれません。親から暴力を振るわれているかもしれません。でも決して自分が迷惑をかけていることはない。これは評価されるべきなんではないでしょうか?

だとすれば前者のグレてしまった人は、後者の生き方を選ぶことが可能ではあったが、さすがにそれは嫌ったための行動であり、やはりその人の意思でグレた要素があることを否定できないでしょう。となれば責められる部分が皆無であるとは私には思えません。


単に電車の中で親連れのうるさいガキがいたとして、それは保護者にも子供にも100%の責任を問えるとも思います。親は大人なので空気を読むことを完全に求められます。自分の子供を黙らせるのは当然です。子供が他人にひっぱたかれたら文句言うくせに、親である自分がしからないというのは完全に自分の立場を解っていない頭のアレな人です。

そして子供も、会話が出来るレベルになれば、他人の言うことは解るはずですし、他人の様子も観察できるはずです。子供をなめてはいけません。子供は自分の有利になるように常に物事をものすごいスピードで貪欲に学んでいます。ただ論理的思考が未発達なので、自分の利己的本心をバレないようにする術が稚拙なだけなのです。

だとすれば、電車内では他の人が静かにしているということを知れば自分が騒いだら浮くという感覚は存在するはずなのです。だから一人ぼっちのときは静かです。静かにする能力は確かにあるのです。しかし知り合いがいるともう話したい欲望を抑えられない。これは子供のわがままと言えるんではないでしょうか?

子供は赤の他人に嫌われることを厭わないということもありますが、それにしてもやはり他人に迷惑が多少かかることは少し考えれば解ることで、考え足らずを指摘されても仕方ないように思われます。



結論がなかなか出ない話なのですが、とりあえず私は

聞き分けの悪い子供が

理解力のない大人と同じくらい大嫌いです
ってゾノが言ってたから、イジメはダメなんです。個人的にはね。
あとイジメはおもしろくないからというのもありますが、おもしろい人もいるわけだから何の論理にもなりません。
とはいえ、イジメは普通にしていてもなくならないと思います。
人は誰でも本能レベルで気味の悪いものや気にいらないものを嫌い避けようとします。これは動物として生き続けるために当たり前のことですね。あとは個人が何を気持ち悪いと感じるかによってその対象がかわるわけで、例え相手が人であっても気持ち悪いものは気持ち悪いのです。そしてそれを嫌う。それに伴う行動をはっきりとすれば、相手はいじめられたと感じる。というわけです。いたって自然な行為といえるかも知れません。自分のことだけを考えるのならば、ですが。


ではなぜそれでいけないと言われるかというと、私が思うには和を必要とする集団の中で明らかに人が傷つけられているからです。

まず大前提として人はいじめられることを嫌うということがあります。その人の嫌がることをするのがいじめだとも言えるのでそこは問題ないでしょう。
そして、和を必要としない集団であればいじめなど問題にもなりません。弱肉強食が当然といったところでしょうか。ですが日本国という集団では和は必要とされていますし、学校やクラスといった集団ではさらに重視されます。誰もいじめられたくないし、見たくもないので、いじめがある集団に自分が属していることを不安視する人が出てくるからです。そしていじめという行為がそもそもダメな行為だと批判し始めるのです。
しかし道徳的にダメな行為ということはさすがにいじめる側も解っていてやってるので通じません。人間としてどうこうではなく、いじめを行えば集団に属する者として不適格と判断されるということを上から教えてやらないと無理なんではないでしょうか。しかし不適格者を最終的には集団から排除するとすれば、それこそいじめだとなってしまうのでしょうか?そうだとしても私は、いじめを好む人たちはその人達に合った弱肉強食の世界に行くべきだと思いますし、いじめを好まない集団から排除されなければいじめはなくならないと思います。

そしてまた「明らかに傷つけられている」という部分も重要です。
明らかでなければ誰も声高らかに批判できない問題なのです。

いじめがダメだと世間で言われるのはかわいそうだからです。

ここはとても重要です。かわいそうじゃないと、いじめられる方にも問題がある、とか理不尽なことを言われるわけです。余りかわいそうではなく酷くも見えないものはいじめとして問題にはならないのが今の世の中なんです。
なぜなら、小さないじめはよくあることだからです。自分でも、好きな人をひいきしたり、2人が共同で悪いことをしたのになぜか片方だけの印象を悪くしたり、そんなことを考えると、いじめられている側に良くない行動があって他人の印象を悪くした結果が当然に出ているだけだとも考えられるからです。最初に述べた通りいじめの要素は本能的に誰でも持っているので軽く全否定はしにくいのです。

そこで私は

いじめに似た行為も許すべきでない
ということを言いたいです。

道徳論だけでいじめを語ると、いじめてなければOKとなりますが、そんなことではいじめる側が圧力をかけていじめていない側に遊びだと言わせれば余裕でいじめが続けられます。そうではなく、集団心理としていじめという状態が生まれることが恐いのだという理由を正直に述べ、その類似状態も許さないようにしなければなくならないでしょう。
ただそうすると笑いが減ることは免れませんが・・・
許すべきでないとは、罰をつくるべきということで、私は集団からの排除が最終的になされなければいじめはなくならないと考えていますが、それをせずに、各個人がいじめをどう解釈するかは置いておいてもとりあえず集団から類似状態も含めて全て無くしてしまわなければならないものだと思って気をつけて行動できるのならば、いじめはすでになくなっているのではないかとも思います。
死刑になるかもしれないと解っている殺人でさえなくならないこの世の中で、いじめに対しては集団からの追放さえしないというのであれば、なくなるわけもないんではないでしょうか。
だいぶ前に流行った元ネタが本か何かだが、もし地球全体が百人の村だとしたら・・・みたいなのがあったのをふと思い出した。

当時に議論したらはまってると思われただろうが、今議論したら遅れてると思われるだろうか。まあどうでもいいが。

私は内容を原作本で熟読したわけではなく、携帯にチェーンメールで一部が回って来たのを見ただけなので余り覚えていないし、もしかしたら記憶が間違っているかもしれないのだが、ちょっとネットで調べて見たからまあ大筋は外さないだろう。余裕があれば「100人村」とかで検索すればいくつかヒットするので見ていただいてもいい。軽く説明すると、


もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう。その村には・・・

 57人のアジア人
 21人のヨーロッパ人
 14人の南北アメリカ人
 8人のアフリカ人がいます

 52人が女性です
 48人が男性です 

 70人が有色人種で
 30人が白人
・・・・・(以下略)

とかが、書いてある。これは限りなく原作に近い日本語訳でチェーンメールでまわりまくった。


んでさらに誰かが付け加えて



また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。

 もし、あなたが今朝、目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることができたなら・・あなたは今いきのこることのできないであろう100万人の人たちより恵まれています。

 もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も体験したことがないのなら・・・あなたは世界の5億人の人たちより恵まれています。

 もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことができるなら・・・あなたは世界の30億人のひとたちより恵まれています。

・・・・(以下略)

こんなのもまわってきた。さらに追加された文章もあるらしいがそれは見たことはないのでパス。


本の原作者の意図としては、明確な数字によって想像力を喚起させ自分とは違う立場の人への現実的な理解を促して、南北問題(富の一部集中の問題)へと考えをめぐらしてもらうというところだったんだろうが、もちろんそれ自体は悪いことだとは思わない。

付け加えられて流行ったメールを見れば、原作者の意図とは違うところで勝手に感動し間違ってわけの解らないことをほざいているのは一目瞭然だ。もしそれで、恵まれない人に愛の手をといった感じで何かその関連の支援活動やらを始めた人がいれば、結果オーライでそれもまた良しとも言える。でも「恵まれている」という言葉でさらに勘違いして自分はまんざらでもないと勇気づけられたおめでたい人もいるらしい。まあそんなメールぐらいで、しかも恵まれない感性を持って勘違いを重ねて勇気づけられることができたのだとしたら本当に恵まれている人かもしれない。

では、筆者がこのメールを見たときにどう思ったかと言えば「しょーもない」という一言につきる。もちろんなんらかの原作があってその人は貧困格差の問題を提起しているのだとは解ったが、そんなことよりも、貧困格差の問題など考えもせずに何かを勘違いして感動したフリをしてしたり顔でチェーンメールを回している人の存在を強烈に感じたためにそう思ったのだ。そういう意味では私の感性もそれほど恵まれているとは言えない。本当に意図を感じ取り感動し文章に呼応したとすれば、募金でもなんでも行動する手立てはいくらでもあるがそんな気は今のところさらさら無いのがその証拠だ。

また原作に近い日本語訳の前者の文章が数字のトリックを使っていることが鼻に付いたことも私の感想に影響した。地球人口を100人(原作では1000人らしい)にすることで想像を容易にするのは解るが、自分が例えば100人の中で1人だけいる裕福な人に値するカテゴリーに分類されたとしても、私の存在はその1人の中の髪の毛の一本分にも満たないかもしれない。それをあたかも百人いる場所で自分だけが裕福な1人の人間として存在するのだと錯覚させる要素があったので鼻に付いたわけだ。まあそれはそれとして現実的な配分の数字を羅列しれくれるだけなら、状況把握の意味では文句のつけようは無かったのだが、私が見た時は後者の文章がくっついていてさらに数字の持つ錯覚要素を用いて何やら一定の方向へマインドコントロールのようなことをしだしたのでばかばかしいと思ったのだ。


一見正しいような同じことを言う人が多数になっているときには、必ず勘違いや悪意や愉快犯的思想や考え無しの狂信がどこかに含まれていると思っておそらく間違いはない。言葉自体には存在していなくても、人に。少なくともそう疑ってかからないと、本当にそれが正しいかどうかを自分で考えて判断する前に流れに飲み込まれてしまう。


どうせなら後者のチェーンメールの最後の文に

こんなものを何かいいと勘違いしたりおもしろがって回すだけで結局何もしない人は100人中でずば抜けて頭がアレな1人だけです。
とでもいれといたらどうだろうか。
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