反骨精神を源に軽い冗談から重い本音まで・・・
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私はとてもよく鼻歌を歌います。
鼻歌といってもメロディだけを口ずさむときもあれば、歌詞を歌ったり、頭の中だけで曲を流すときもあります。実際にウォークマンなどで曲を聞きながら口ずさむのもアリです。
私は洋楽が好きなのでたまに歌詞とかそこまで覚えていなくて適当に歌ったりします。

鼻歌を歌っているととても気分がよくなります。
すがすがしいときにはすがすがしい曲を、ゴチャゴチャした場所なんかでは暗くハードな曲なんかを流すと自分の世界にバックミュージックがついたみたいで、平凡な光景がすごく色づいて見えるような気がします。

これは密室で自分の思いついた歌いたい歌をかたっぱしから歌っていくカラオケとは全く別のものです。どちらかというとドライブをしながらその場所に合った曲をかけるような感じです。
歩くテンポをドラムのビートに合わせてみたりして曲と現実をだんだんかぶせて行きます。すると今度は現実に起こっている音が曲の一部であるような感覚になってくるのです。

私は音楽のそういうところがとても好きです。部屋の中で静かに聞いてこそ映える曲というのももちろんあるでしょうが、曲は周りの風景や状況によって色んな形に聞こえるものなのではないかと思います。
カリフォルニアの陽気なバンドの曲をウォークマンで聴いていたら、その朝は天気があまりにも良くて曲と世界が一体化したように感じられ、ずっとその曲を聴いていたくなって、せっかく早起きして行った学校の授業をそのままサボって曲を聴いたまま近くの公園でひなたぼっこして寝たこともあります。

だから私の鼻歌は、その時に流行っているものを色んなとこで聞きすぎてふと口ずさんでしまうというようなものよりも、この状況はこの曲だなあと自分で思って意図的に歌うものや、なんでこんな歌を今思い出したんだろうと自分でも思う様なものが多いです。


でも鼻歌には重大な欠点があります。

それは他人から見たら

頭のおかしな奴になることです。


鼻歌を歌って歩いているときにいきなり自転車に後ろから抜かれたりするとちょっと恥ずかしくなったりします。
でもまあそんなときはまたおっちょこちょいっぽい変なテンポの曲を頭に流すと、それはそれでいいかなあ~という気になりますね♪
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普段私は偉そうなことばっか書いてますが、知っている人は知っての通り、そこまで考えて行動している様には見えません。

それはひとえに私が適当だからです。

いろんなことがめんどくさいんですほんとに。

じゃあいつもブログで書いてることは嘘かというとそういうわけではありません。自分独りで物事を考えてるときは、なぜかものすごくシビアに物事を考えてしまうときがあるんです。

では他人といるときはどうかと。

気の合う人といるときはおもしろければOK!

もうね、友達だと思うと結構なことが許せるというか、そんな偉そうな感じでもなくて、どうでもよくなってしまうわけですよ。自分の意見がやや異端であることも解っているので、そんなものを他人にまで押し付けるわけにはいかないですからね。

これ自分ではほんとに適当だな~と思うんです。
散々あれは嫌だの何だのって思ってることがあるわけですけど、友達の意見だとかなり素直に受け止めることができる。「一理あるなあ」とすぐ思えてしまうわけです。

ということはまあ私にとっては

理屈よりも人の方が大事

ということでしょうか。
肯定ばかりではその人のことを深く考えることはできませんが、初めから否定していては余計解りません。友達相手だと、自分の意見があってそれはそれ、という風に思えてしまうんです。非常に勝手な話ですが、友達の方がちょっとぐらい悪いと思っても、他人よりは友達の味方につく性格なのです。


じゃあそこまで気の合わない人はどうか。
まあ最初から気の合わないなんて思ってるわけですから、その人の意見は自分にはあまりしっくりこないと感じてるわけですね。そうなれば、

そんな人に心をマジメに動かしてどうするんだ?

とか思うわけですね。つきつめて言えばということですが。
これは賛否両論あるでしょうが、私としてはある程度気持ちをこめて最初は話していたがそれが合わなかったということなので、それ以上頑張ると無駄な対立なんかが起こってこっちにも相手にもいいことがない、と思うわけです。
自分の意見はあるけども、それを解ろうとしない人には何言っても無駄ってこともありますし。
ならばまあそこはもう適当でいいや、とかなるんですね。
でも邪魔すんなよ、とかは思ってますけどね。


では最後に何も知らない他人はどうかと。
思うにここが一番私が今までの理論などを頭に浮かべながら対応しているところですね。自分の尺度をもって相手がどのような人なのかを見定めているわけです。その間は凄く当たり障りのない会話をしなければならないのでめんどくさいわけですが、まあそれは礼儀というのもありますし、自分もいきなり他人に嫌われたくないと思うからこそそうやってるわけなので文句を言う筋合いもないです。
・・・まあでも赤の他人なんだから二度と会わないからもうなんでもいいや!ってこともありますね。無駄にテンション高いウザい奴を装って楽しんでみたりとかね。


まあマジメに考えてやって楽しいときと、不真面目に考えてやったほうが楽しいときがあるってことですね。それをちゃんと解るにはやはり自分がどう考えているのかや、周りの物事を深く考えることが必要だとも思いますが、感性が鋭ければそれもいらないことなのかもしれません。まあマジメにするにしても適当にするにしても、

空気読め!

ってことですかね。空気読めてない人こそがおもしろかったりもしますけどね。
今朝、カナダのモントリオールで行われている世界水泳でシンクロナイズドスイミングの日本代表が銀メダルと勝ち取りました。
おめでとうございます。

私も縁があってこの生放送を見ていたわけですが、正直言って

全く感動しませんでした。

まあこの表現は私が「感動」という言葉に一般人よりおそらく重きを置いているため、多少の語弊があるかもしれませんが、私としてはそうだったのです。

「感動」についてですが、よく映画の宣伝などで、見終わったらしき人たちが「超感動しました~」とか言いますが、あのせいで感動という言葉に私が重きを置くようになりました。だって明らかにあの人ら感動まではしてないでしょ?

映画を見る前と後とで

考え方や生き方が変わったんですか?


おもしろかった。泣いた。笑った。ただそれだけのことで大げさな。
それぐらい日常でもやってるでしょ。
それが感動だって言うんなら感動なんてもう大したことじゃないですよね。
でもそんなんじゃ本当に感動した人達が使う言葉がないじゃないですか!

だから「感動」と言うからには、その後それ相応の影響を受けた生き方をしてもらうぐらいでないと嘘だと私は思うわけです。
この人の感動なんてそんなもんか、とね。


でまあシンクロの話に戻りますと、私はシンクロを経験したこともなければ知識も全然ないんです。おまけに感性もない。
例えばスケートなら回転数が多いジャンプがいいとか、着地の姿勢だとかがポイントになるんでしょうけど、それでもあんまりよく解ってないのに、シンクロだとどの技が難しいのか全然解らない。
素人目にはそろってるように見えるのに解説では「今のはちょっとずれてましたね」みたいなことを言ってる。

それでまあ日本が銀メダルを取ったと。
凄いことです。世界二位なんですから。頑張らないとできないことなんですから。でも私は

絶対にその凄さを解っていない!

パフォーマンスの凄さが理解できていないというだけではありません。その人達がどれだけの期間どれだけ努力して、どんなことに気を使って、どんなものに耐えてそこにたどり着いたのか。全然解りません。

だから決して感動できていない

応援の気持ちやねぎらいの気持ちを持つことは出来ても、真の感動なんてテレビの前に放送時間の間座ってるだけで味わえるわけがない!

あの場で湧き起こっている感動、つまり達成感は

努力し、成功した者にのみ与えられる特権

だと私は考えます。

もちろんそのシンクロを見て感動しその後シンクロの道を歩む人もいるかもしれない。しかしその時感じたものを本当に自分のものとするためにはやはり努力し、成功しなければならないのではないかと思うのです。


しかし、そこまでの最上級とも呼べる達成感を得るためにはそれ相応の努力をしなければならない。それは自由や欲や一般的だと考えられる生活などをそれ相応に捨てなければならないということでもあります。

どちらが幸せなのかは解りません。

一般的な生活を送る大多数の人には味わえないような強く大きく濃い感動を経験することに賭けて、他の楽しみを犠牲にして生きるのか。
それとも大多数の人が味わっている一般的な生活や楽しみというものを自分も経験してみるのか。
両方失うことはあっても、両立できることはまずないでしょう。

しかし或いは、どちらの人生も

幸せなものなのかもしれません。
私の親は漫画から得た知識というだけでバカにしてしまうような型にはまった残念な人なのですが、私はそうは思いません。
よく子供には漫画ではなく活字を読ませるべきだと言う人がいますが、私は必ずしもそうだとは思いません。むしろ

漫画は読むべきだと思っています。

音楽と詩を合わせた歌に両者とはまた違った性質があるように、イラストと活字が組み合わさった漫画にもまた違った要素が多分に含まれていて、どちらが良いというのではなく、それぞれに良いところがあるのではないかと思います。

例えば、活字を長時間読むのには相当な集中力が必要ですが、絵により状況を把握しやすい漫画には読みやすさというものがあります。しかしそれは裏返せば活字の方が自分の想像力を高め易いということにもなります。

そして私が一番評価している漫画の要素が

とっつき易さです。

普通活字の本を読むときは、その本一冊をまるまる読まなければなりません。しかし漫画であれば、色んな漫画がいっぱい載っている雑誌を見て、目に付いたものをとりあえず一話だけでも読んでみるということができます。

昔の事などに全く興味のない子供がいたとして、いきなり「赤穂浪士」をそれが好きな大人の気持ちからその子に薦めたところで、気乗りしないまま読んだとすればそれはいい読書にはならないのではないでしょうか。

それならばまず過去の時代を舞台としたギャグマンガでも読ませてみる。ここで重要なのは漫画というのは意外と

セリフがしっかりしているということです。

過去の時代の漫画だとすれば、結構古語を交えてしゃべるキャラが出てきたりして学ぶことができるのです。ヒーローものの漫画ならば活字の部分が少ない中でウマイことを言おうとして、慣用句や普段使わない言い回しなどが出てくるものです。

また、スポーツ漫画などではリアリティーを持たせるために色んな最先端の科学的な知識が散りばめられ、必殺技の根拠となっています。自分がやったこともなく、しようとも思っていないスポーツの知識を何気なく手にいれることが出来るチャンスなどはそうそうないはずです。


「ドラゴンボール」によって正義とは何なのかを子供心に多くの人が学んだはずです。
「巨人の星」で魔球を真似た人、「ブラックジャック」で医者を目指したくなった人、「スラムダンク」でバスケ部に入部した人、いろいろいると思います。
「ゴルゴ13」を読めば各国の政治・経済情勢まで学べます。


ただここで漫画を読むときに注意していただきたいのは、読むジャンルを限定して欲しくないということです。ジャンルを余りに限定してしまうとそれは

オタクの可能性が出ます

いやもちろんオタクでも何の問題もありませんし、私はオタクでおもしろい人が大好物ですし、オタクになる可能性は活字でも同じことです。
ただ漫画は知識や知恵を得るのに有効だから読むべきですよと主張する手前、その可能性をご了承下さいという意味です。

まあでもオタクだとしてもできれば色んなジャンルに挑戦してみて欲しいです。漫画というのはそれがとてもしやすいものだと思うから。

そして、個人的には小学生に早くコロコロコミックやコミックボンボンを卒業して少年誌を読み始めて欲しいものです。親御さんも必死に活字の本を読まそうとするのではなく、漫画の年齢的レベルを上げるということにもっと関心を持つべきだと思います。


皆さんはどんな漫画がお好きでしょうか?
今日は買い物に出かけた後友達と別れて一人バイトに行きました。
その途中に駅のホームでジュースを買いました。
今日のブログはただそれだけのお話です。



私がとてもとても小さな頃、まだジュースは100円でした。

それは今よりとてもとても高かったのです。

当時は遊びに行くときにねだって貰える一日のおこづかいがちょうどその100円だったのですから。
いくらはしゃいだって、いくら汗をかいたって、いくらのどが渇いたって、そう簡単にジュースは買えません。
当たりつきのガムに、チョコに、ゼリーに、スナック、食べたいものは山ほど駄菓子屋にあります。自分で買うとすれば、余り冷えていない数十円の小さなジュースがせいいっぱいでした。

ふと横を見れば、お金持ちの子がいます。駄菓子の入ったビニールを下げながらジュースにたこ焼きまで!
でもそれはそれ。うらやましくないと言えば嘘になるけどそんな不公平なんてどこにでもある話。自分だってきっとまだ幸せな方なんだし。

でもいつか、大きくなって、もっとおこづかいが増えたなら、のどが渇いたらすぐに大きなジュースを飲もう。たこ焼きまでは贅沢だろうけど、友達の家までわざわざ行ってお茶をもらうんじゃなくて、皆で好きなジュースをその場で好きに飲もう!


そんなアホなことを考えていた子供の頃の自分を

また今日もいつものように思い出しました。

たかがジュースごときで何を大げさに今でも思い出すぐらい強く心に念じているんだか。
大人になれば数万円の買い物ぐらいできるようになるんだから、ジュースなんてその時でも頑張れば買えるもの、そのうちすぐどうにでもなりそうなことはちょっと考えれば解ることなのに。
どうせ決意するんなら、もうちょっと大きいもんを買うだとか自由に扱うだとかにすればいいのに。えらそぶっていたわりには大したこと考えてないアホなガキ。でもそんなジュースごとき自由に買えないぐらい自分が無力で無能なガキなことに気づいているガキだった。
早く自分で当たり前のことを当たり前にできる様になりたかった。


さて、
電車に乗って数十分すればバイト先で冷たい飲み物が飲めるのは解っている。
でも今のどが渇いているから。120円・・・いや、150円も出してしまおう!


子供の時の自分からいつどこで何が変わったのか、ちょっとずつ、でもいつの間にか成長してしまったので、あまり実感が湧かない。子供の頃から理屈をこねまわしていたような気もする。
だけど自分のお金でジュースが買えるようになった。

まだアホだから、凄く幸せなジュースが飲める
ブログを見ていれば解るかもしれませんが、私には「疑う」というクセがあります。
うさんくさい人に対してだけではなく、自分自身の気持ちについても気がつけば疑いを持ってしまいます。

それは自分のしていることが正しいと信じたいからです。

何かに対してあることをしようと思ったとき、その自分の行動に疑いを持って物事を客観的に考えた上で理論的にその疑いを晴らすことで、自分の考えていることが間違ってはいないと深く信じることができます。

もちろん自分が最初にしようと思ったからには薄くは正しいと思っているんでしょうが、ほんとうに正しいことかどうか、正しくないとしても自分が求めている結果を本当に生み出すものなのかということを考えてしまいます。物事を疑いもせずに鵜呑みにしてしまうことは、自分が何も考えを持っていないのと同じだと思うからです。

もし客観的に考えた上で違う結果を招いてしまい、例えば怒らせるはずでは無かったを怒らせたとしたら、自分の判断がどこか間違っていたのだと即座に自分の過ちを認めることができると思います。

逆に自分勝手な人は自分のことを疑ってないんだろうなあと感じます。
その人はそれまでにミスをしたことがないかもしくは客観的に物事を見るには能力不足ということなんでしょう。自分の思う様な結果と違っただけで不機嫌になる人なんて最初から何も考えていない人よりも迷惑です。


しかし私もいつでも客観的に自分を見つめることはできるません。

それはまず感情が出てくるときです。
私がここでいう感情と呼ぶものは

打算がなく、流されたわけでもない

純粋な自分の感情
のことです。

当然のことですね。例えば、自分より強い相手で自分が負けると解っているにもかかわらず、相手を殺すのも厭わない勢いで殴りかかってしまうのが打算の無い怒りです。
少しでも打算があるのならそれは客観性が既に入り込む余地が存在しているということです。にも関わらず勢いに任せて怒ることで状況を悪化させたとすれば、それはどうしようもないものではなく、単に考えが足りないだけです。
周りの状況に流されて生まれた感情というのも、周りの状況を認識している時点で少なからぬ理性が既に働いていると言えます。

私はそのような自分で抑えようのない感情というものは、そう簡単に体験できるものではないと思います。そしてそういうものこそが本当の感情であり、たとえそれが喜怒哀楽なんであれ

人間が持つ一番素晴らしいもの

に感じられ惹かれます。

そしてそれ以外のもの、理性による制御が含まれながらも能力が不足して起こった、感情のようなものは

嘘の混じった偽りの感情

に感じられ嫌悪を感じます。
念のため言いますと、怒ったフリというものはまるっきり理性なので、好き嫌いはまた個別に判断するとしてここに言う偽りの感情には入りません。私もよくあることなんですが、自分がそんなに急ぐ必要もない時のに行動の遅い人にイラついたりすることが、自分を制御する能力が不足しているだけの、なんの意味もない無駄な偽りの感情なのです。


そしてまた、信じることには疑うこと以外にもう一つ方法があります。それは

信じると決めることです。

私にとっては友達に対しての感情がこれに当たります。
自分さえいつも正しいとは思えていない私が、友達はいつでも正しいと信じることはまず不可能です。
もちろん疑問に思うことは友達ですから遠慮せずに言います。
間違っていると思うことも当然遠慮せずに忠告しあうのが友達です。
そこは個人個人の考え方が違って当然。
しかし、自分には全く判断できないことなのであれば信じたい!
いや、信じるのだ!
もし友達が正しくなかったとしても、自分は友達の味方で良いと思うのだ!
もし友達が自分に嘘をついていたとしても、何かしらの理由があったと思うのだ!
普通にしてりゃあ信じるも信じないも関係ないし、考えることもないし、どうでもいい!

そう思えないのなら

信じれるまで疑いつくすしかない!



人を疑うことは別に悪いことだとは思いません。自分のことまで全く疑わない人の方がどうかいう気がします。しかし人を疑うのは誰かを信じるためというのでなければ少々寂し過ぎるのではないかと私は思うわけです。
皆さんが旅行に行くときにはどんな目的がありますか?

自分が見たいものを見に行ったり会いたい人に会うための旅行。
共に行動することを通してメンバーの結束を固めるための旅行。
何かが終わったり達成されたことを記念してのお祝い旅行。
新しい出会いや自分を見つめなおす経験を求めての一人旅。
都会での煩雑な生活から離れることで日常を忘れ心を開放する一種の傷心旅行。
などなど様々な目的の旅行があると思います。

しかし私が旅行に目的を持たせるとすればそれは

気の合う人と共に楽しい時間を過ごす

ということだけです。

それがない旅行なんて、私には何の興味もありませんし、そんなに楽しいものとも思えません。そんな旅行には、単なる暇つぶしではなくその旅行において少しでも楽しい時間を得るための雑誌や文庫本や音楽や携帯電話などが不可欠です。

そもそも上記の目的のためにわざわざ旅をする必要があるとは思えません。
最初にあげた「自分が見たいものを見に行ったり会いたい人に会うための旅行」は旅行しないと不可能で

すが、それのみの目的では旅行というより単なる移動じゃないかと思うわけです。


あと他に旅行しなければならないような理由は今のところ思い浮かびません。
まあもちろん必要性がなくとも色んな手段の中から旅行を選ぶのはその人の自由ですが、その人達の旅行の一番の必要性はおそらく

思いっきり羽を伸ばしたり遊び倒した

という気分になること
でしょう。

これさえ解っていれば楽しい旅行ができるはずです。
渋滞が嫌ならそんなとこに行くべきではない。人ごみが嫌いならそんなとこに行くべきではない。見たかったものがちょっとでもショボかったときにがっかりするなら行くべきではない。
ゆっくりしたいなら何事にも焦らずのんびりと。
遊び倒したいなら何事にも貪欲にがっつりと。
といった気持ちが重要なんではないかと思います。


さて、先ほど「上記の目的のためにわざわざ旅をする必要はない」と言いましたが、私が欲している目的のことも当然指しています。
つまり私は旅行自体が特に好きなわけではありません。
旅行なんてしなくても楽しいことなら私には山ほどあります。
マンネリのつまらなさを感じているんなら旅行で脱却じゃなくてその日常をどうにか楽しいものにするべきです。
もちろん旅行は人生で楽しい時間を過ごすための有効な手段の一つではあります。

ただ気の合う人だけは人生に不可欠です

この真上の太文字は主観的な私の持論なので反対意見もあるでしょう。
でももし私と同じ意見な人がいれば、旅行は単なる手段でもっと大事な目的が他にあると解っていただけることと思います。


以上を踏まえた上で、今まで自分は旅行が好きな方だと思っていた人。
あなたは本当になにかにつけてとにかく遠出する事が大好きな「旅行好き」ですか?
それとも旅行は単なる手段なだけの「人好き」ですか?
今日のテーマは「夜景・花火・星空」です。私は意外に嫌いではないんですよこれらを見るのが。まあ別に好きでもないですが。

実際にそれらを見ているときは、きれいかな~とはちゃんと思います。特に花火なんかは変化もありますし、爆発時の体に響く大きい音なんかは結構好きです。

でも余りに周りが褒めだすと冷めます。

皆が口々に綺麗だ綺麗だと連呼するんで、周りの雰囲気で綺麗だと思い込みたくない私は逆に疑問になってくるんですね。そんなにキレイか?と。

確かに綺麗です。

3日後には完全に忘れる程度に綺麗です。

まあこれは個人差あると思いますけどね。本当にその中に綺麗さを見出してそのことに一生従事して生きる人もいるわけですから。
でも私は全員が全員綺麗だと言いまくってることには疑問が残るんですよ。実はそこまで綺麗だと思ってないだろ?カワイイとかと一緒で「夜景=綺麗」のスイッチが入っただけだろ?どこの夜景もどうせ一緒に見えてんだろ?ちゃんといちいち覚えてんのか?とね。

例えば本当にうまい物だとどこのどれがおいしいだとかちゃんと覚えていて、何ヶ月かするとおぼろげながら味を思い出してなんだか急にもう一度食べたくなる。それは純粋にその料理のうまさに対しての感情なわけです。

でも夜景だとかはおそらく違う。何の前触れもなくふとあそこの夜景をまた見たくなるなんてことはないんじゃないかと思います。「どこか行こうか~」という機会や前フリがあって初めて頭に出てくる。しかも一回見た夜景では同じだから、違う夜景の方がいいなんて考えまで出てきそうです。

その綺麗さをふと思い出したとしてもそれは

星空の美しさそのものではなく

そのときの思い出全体を思い出している


ということが一般的なんじゃないでしょうか。

まあ私個人に関しては、「夜空・花火・星空」のどれに関しても深い知識はありません。なぜなら普段からそんなに興味のないものだからです。何度も見たことがあるにも関わらず、深く知りたいほどの興味は湧きませんでした。つまり私の目にはその程度のキレイさにしか映らなかったというわけです。

綺麗だと手放しで感動した人達はさぞ

興味を持って調べて知識が豊富なんでしょう。



とはいえ、私はそれらのものを見ることは嫌いではないのです。
それは、それらのものが

その姿を通して色んな想像力を掻き立ててくれる

もの達だからです。

この夜景の中でどんな人がどんなことをしているんだろう。花火職人の人達はこの一瞬のためだけに一生懸命花火を作っているんだなあ。空はでかいなー、大昔の人間はこの星達を結びつけて星座を考えたのかぁ、いくらなんでも無理ありすぎるぞ!などと思いを馳せることができます。

そういったとりとめのないことを考えながら見ていると、綺麗だなぁとかいいながら明日になれば忘れるものを何気なく見ているより、何倍も楽しくて何倍も癒される気が私はします。
さて今日は毒づきますか。
先日テレビを見ていたところ、ドキュメンタリー仕立てのニュースで売春娘達の様子が報道されていました。
私はその映像を見た瞬間言い知れぬ嫌悪感を覚えました。「売春なんかする人達なんていなくなればいいのに。」を二段階ほど辛辣にした表現が頭に浮かびました。

そこで私はふと思ったのです。なんで自分はこんなにも売春娘に嫌悪感を抱いているのだろう?と。
私は大した理由もないのにムカついたり悲しんだりすることが嫌いです。まあそういった感情の大切さの話はまた今度にしたいと思いますが、その番組が暗に売春が横行している現状を憂えているつくりであったという部分に、

自分の感情がまさか流されているのでは!?

という不安もあったので、考えてみました。

まず売春は世間的にやってはいけないことなのは7月3日のブログでも言った通り法律(条例)で禁止されているので解ります。
ただ私は法律を崇めているわけではないので、法律に触れたからといってその人を即嫌うというようなことはありません。

では売春行為の中身に嫌悪感があるのでしょうか?しかし私は

売春に関係したことは当然ない!

これは非常に重要なことです!過去に売春に対して悪いイメージを抱くような出来事は無かったはずなんです。売春の大体の仕組みは想像できますが、

特に誰がかわいそうだということもない。



そもそもなぜ売春しちゃいけないかというと、「社会のモラルが低下するから」とか「いずれより重大な犯罪行為の温床となるから」とかいう理由だと思うんです。そこには大変納得です。春を売っていいということにすれば、何も考えてないし考えたとしても程度が知れているまだまだ年齢も頭もアレな娘が当面のお金欲しさに売っちゃって、後戻りできず悲惨な人生を歩む。自分が春を売ってたつもりがいつの間にか売られててここはどこ?ついでに薬も打たれて私は誰?みたいな。それが当たり前になったら世間でもできちゃった結婚どころか、たぶんこの人の子結婚とかになってきてもうめちゃくちゃなると。そうならないように良識ある大人がしっかり守ってあげるべきだということですね。

それはそうなんですが、そうなるからといって私が嫌悪感を覚える必然性はないんです。私はそこまで優秀なモラリストではないのです。


そしてその番組では、いけしゃあしゃあと犯罪行為の具合を語る売春娘達にスタッフが「君達の値段が3万円でいいの?」という痛いところをついたようで実はありきたりな質問を投げかけました。すると彼女達は勝ち誇ったように「別に~私達じゃなくてHの値段だから。」と答えました。
なるほど、確かに一理あるな。しかし、


謎は全て解けた!!


その娘達はそれまで「誰でもやってるし~アハハ」みたいな感じで喋っていました。こいつらは何言っても解んないんだろうな~って感じです。当たり前です世間でやっちゃいけないって言われてることやってるって解っててやってんですから。まともに話す気なんてないんです。
しかしさっきの一言だけは、綺麗ごとばっかり並べる大人達とは考え方の根本が違うんだよと言わんばかりに、この質問にならグウの音も出ないように言い返せると鬼の首をとったように、毅然と言い返したのです!
私は思いました。

せっかく自信ありげに人の話聞かないスタイルで調子良かったのに、揚げ足取るとこ見つけたからっていきなりムキになるなんて、こいつらほんまのガキやん・・・


そういう意味で「かわいそう」
と。


売春になるのは年齢的に子供だからだと解っていながら私は本当に子供だと思えていなかった。年齢的に子供なだけでなく考え方まで子供、つまり頭がアレだから彼女達は好き好んで売春をしているんです。そしてそれを自分勝手なことだと言われたくない!わざと解ってて悪いことしておきながら、自分を正当化して許してもらいたがっているぐらいガキでアレなんです。そこのとこを認識できていなかった。もちろん心のどこかではそう思っていたから嫌悪感を感じたわけですが。売春はやっちゃだめですよもちろん。でも私は頭が本当にアレな人が大嫌いです。

もし売春をしている子が、売春は本当に嫌だけどお金のために泣く泣くやっていることだったり、自分の生きがいをそこに見つけているのだとしたら、そこへ至る経緯が頭のアレなものでない限り別に嫌いではないなと思いました。無理に自分が悪いことをしていないと主張しなさそうですし。
まあでも番組に出てきた子はそんなのではなく、彼女達はやめろって言ってるのに無視してゲラゲラ言いながら

幸せそうに不幸になっていってるんです。

そんな奴らにまで私は情けをかける気はない。こんな奴ら自体はどうなろうと知ったこっちゃ無い!もしかしたら売春以外のことをやってればもっと不幸な人生を歩んでいたのかもしれない。売春をしなかったらもっと他人に多大な迷惑をかけることをしていたかもしれない。何度もいいますが、だからといって売春はやっちゃいけないんですよ。ただ重要なのは、自分勝手に犯罪を侵すというのならこっちにちょっとでも迷惑をかけられては困る!問題なのは自分にとって大切な人だ!

こんな頭のアレな奴らのせいで

自分の知ってる人ももしかしたら

不幸なことに巻き込まれるかもしれない

と想像してしまうから忌み嫌うのだ


と気づきました。

でも当面のところ周りにそんな気配は無い。まあ不幸というのはいきなりやってくるから怖いし、だからこそその可能性の源に嫌悪感を覚えるわけですが、不幸でないうちから心配しててはせっかく今不幸でないというのに意味がない。そう考えると嫌悪感も薄れ、何だか売春娘達も笑顔で見ることができました。

あ~俺の知ってる奴じゃなくて良かった

せいぜい頑張れよ
ってね☆
今日のテーマの「物使い」というのは「物使いが荒い」という風に使われるときの「物使い」の意味です。

というのも私は物使いが結構荒い!
もともとめんどくさがりなので、丁寧に物を扱うときに生ずる煩わしさに負けるんですね。でも一応物が即壊れてしまうような行動を勢いに任せてやっちゃうようなことはしません。壊れてもいいもんならやりますが、そこまでドジでもないので、後から「やっちゃった~」と後悔するような物の破壊はほとんどないです。

なので「物持ち」は結構良かったりします。例えば携帯電話も一年以内に壊してしまったりするようなことはありません。しかし一度携帯電話を壊して修理に出した時、携帯を落として壊れたのではなく普通に使っていたら、と言ったら店員に

こんな壊れ方聞いたこともないんですけど!

と半ギレされました。


記憶に古い「地域振興券」で買って今も愛用している自転車は、高校時の通学と明らかに積載量をオーバーした使用によって車輪が曲がり、タイヤのゴムがシャーシに当たって定期的に音が鳴るありさまです。

早く買い変えろよと良く言われますが、私は物使いが荒い割りに物への愛着が強いんです。なんたって今ある物は

荒い扱いでも壊れないでくれた素晴らしい物達なのですから。


また私は友達の家で、結構仲の良かった友達の妹のシャーペンをふざけていじっていて壊したことがあります。これは9割方問題の無いいじり方をしていたんですが、不運にも壊れてしまったので「やってもた~」とは思ったものの謝って新しいものを買うなどお詫びをすれば許してもらえるはずでした。しかし、それはただのシャーペンではなく、妹がその友達とおそろいで買って愛用していた代えのきかない大切なものだったのです!
当然、妹は目の前で号泣!!
なにかお詫びをしようと言いましたが、彼女が涙で溢れた目で言った返事は「何もせんでいいからもう私のもの触らないで」でした・・・

いっそのこと俺を殴ってくれ!

悪いことをした自分に友達の妹が怒りを向けようとしないだけに本当に辛かったですよあれは・・・こっちを向いた絶望的な涙顔が焼きついて夢にまで出てくるほどでした。
それから他人の本当に大切にしている愛着のあるものにはうかつに触れないでおこうと決めました。


そして物への愛着と同時に私が大切にしていることがあります。

それは物はいつか壊れるということです。

私は、自分が本当に大切にしているものを誰かが誤って壊してしまったとき、いつかは壊れるものだからと言ってその人を許せることがとてもかっこいい行為だと思っています。

自分がそうやって許してもらいたいなどとは思っていません。それは全然かっこよくないです。

愛着ある物が壊れても過ちなのだから人を許してやろうという大人な考え方がかっこ良くて、自分もそういう考え方ができるようになりたいというのが一番の意味でもありますが、違う意味でもあるんです。

すごく自分が大切にしていて愛着のあるものだったのだけれど、それでも、

こいつとの関係より大事なわけじゃない

と思えるような奴をいっぱい作りたいなあということでもあるわけです。

でも現実ではそんな悟ったような考え方がいつでもできるかというと、そうではありません。まだまだ冷静でいられない未熟者です。愛着あるものが壊されたとしても、揺るがない大きな心をもてるように頑張っていきたいです。でも、

謝る気が無い奴には

即効カチンときますけどね!
このほどフットボール発祥の地イングランドのロンドンで開催されることが決まった2012年夏季オリンピックで、なんと野球とソフトボールが競技から除外されることになりました。

ということで今日は野球とサッカーという現在日本で最もポピュラーでプロリーグまである二大球技について考えてみたいと思います。
一応その前にあらかじめ、私は野球もサッカーも少しずつ経験したことがあり、プロの試合も観戦に行ったことがあり、現在はどちらの競技にも関わる活動をやっておりどちらも好きであることを言っておきます。


私が小さな頃にはプロスポーツで球技と言えば野球だけでした。ゴルフやボーリングとかもあったのかもしれませんが、とにかく人気なのは野球です。私も小学校の頃はソフトボールをやっていました。

しかしちょうど10年ほど前になるんでしょうか、サッカーのプロリーグであるJリーグがついに日本でもできました。野球の人気をおびやかすには到底至らないものの、JリーグチップスやJリーグアイスなどがバカウレしました。とはいえミーハーなファンが一瞬ついてサッカー熱などすぐ冷めてしまうんじゃないかといった状況でした。

ところが今現在、日本において野球と同じぐらいの人気を誇る国民的競技となりました。これはなぜでしょう?


私が思うに、一番のポイントはサッカーがモテる競技だったことです。

Jリーグが始まった当時、世の中にはロンゲや茶髪というファッションが同時に流行り始めていました。Jリーグの選手の幾人かは髪を伸ばし、茶髪にし、手足にミサンガをつけ、ビジュアル的に女性がくいつくであろうことうけあいな姿で颯爽と登場したわけです。

女性が食いつくとなれば当然男性も食いつきます!

思春期の男の子からしてみれば、ストイックな坊主頭で汗を流し甲子園に住む魔物と戦うのは凄くカッコイイ!憧れの存在だ!しかし、しかし坊主頭ですか・・・青春時代を坊主頭オンリーで過ごすのですか・・・いやそれだからこそのかっこ良さがあるわけやけども・・・えっ?サッカー?うわ!これ!

・・・ありやな。

となった人が多いんじゃないかと思います。完全な妄想ですが。

そうやって競技人口も少しずつ増え新しい世代にサッカーという競技の人気がだんだん根付いていった。しかし今一つ野球と比べるとマイナー競技の感は否めなかった。

そこにまんまとやってきたのが日韓W杯サッカー!
ふたたびにわかファンがJリーグ開幕以来ずっとサッカーを応援していたかのように沸き出します!日本中がお祭り騒ぎのようになり、その日の世間話として出てくるであろうサッカーの話題のために人々が知識を積極的に吸収しだし、自分のお気に入りの選手を作り、手ごろなところでベッカムに決め、またその結果がベスト16という世界に日本が通用すると言うに十分な結果に終わったため、サッカーが一躍人気競技に踊り出ました。

さてこの先が問題なのです。
野球とサッカーはどちらも人気ある競技になったのですが、野球の方に近年かげりが出て来ました。絶対の人気球団であった巨人の試合にも空席が目立つ有様です。これはなぜでしょうか。

まず野球チームが合併やらリーグ制がどうやら選手と協会がもめてるやらで解り難くドロドロしたイメージを人々に与えてしまったこともあるでしょう。そして人気選手のメジャー移籍もあるでしょう。しかしそんなことはサッカーでもやってます!J1とJ2のチームが毎年入れ替わったりリーグ戦とカップ戦が平行していてファン以外には解りにくく、海外移籍も野球と同じく最近激増しています。なぜ同じようなことが起こっているのに違いが出るのでしょうか。それは

サッカーには国際試合が多い

からだと思います。

サッカーもその地方ごとのチームの人気が急増してるというわけではないと思います。日本代表というチームのファンが増えているんです。だとすればリーグがごちゃごちゃしてても海外に選手が行こうとも関係ない。

毎日毎日見なくともそこそこの期間に試合をチェックしていればよく、国際試合となればその数日前から同じ様なニュースをどこでもやっていて結果も同じように数日間ニュースでやっている。日本代表チームの試合や選手に関することであれば地域に関係なく全国で放送される。・・・こ、これはよく考えたら

野球界において巨人が人気を得てきたやり方と

同じじゃないか!



そしてサッカーは全世界で人気のある競技であり、野球はそうではないという理由でオリンピック競技から除外されました。
それぞれにスポーツとしての面白味が存分にあります。
日本では野球の歴史の方が長く伝統ある競技です。
現代はグローバル社会です。

これからはどちらの競技がより人気あるものになっていくんでしょうか。はたまた第三の競技があらわれるのか。だとすれば「スラムダンク~第二部」が大きく関係してくるのではないかと個人的には思ってみたりします。
今日はリンクもさせていただいてコメントもいただいている映画委員長様より「男女差別についてなんか書いてみてよ」というリクエストを先日いただいたのでそれになんとか応えてみたいと思います。他の皆さんも何かリクエストがあれば気軽におっしゃって下さい。いいお題だと思って気が向けば書きます♪

まず差別全般について少しだけ考えてみます。後々深く考えてこのブログに書くかもしれません。その時に考えがまた改善されているかもしれませんが当面の考えです。

この世に差別は存在します。日本にも余裕で存在します。なぜなら人はもともとは平等でないからです。最初から考える余地もなく平等なものなら

わざわざ憲法で決めません

そんな難いこと言わなくても人々は理解しています。多くの人々の共感を受け大ヒットした曲『世界に一つだけの花』を思い出してみて下さい。「もともと特別なオンリーワン」と言っていますね。皆同じじゃないと。しかしもっと重要なのは「ナンバーワンにならなくてもいい」という歌詞の方です。さすが槇原敬之!

しっかり花にはないけど人の能力に優劣はあるということをおさえた上で励ましています。

それが男女間の差となるとそれはもうかなりのもんですよね。
とりあえず身体上の差異があることから全ては始まっていると思うんです。そして小さな頃からの当たり前の教育も手伝っている。

ものごころついた頃から、男の子と女の子でまず服装が違う。トイレも違う。漫画も少年誌と少女誌がある。ランドセルの色も違う。朝礼でも男女別の並びだったり教室の席も男女で一組だったり。更衣室が分かれてたり。どこかで「男と女は別もんなんだな」と感じるわけです。

身体上の差異はさらに決定的なものを感じさせます。
固体でのばらつきはあれ、男性の方が女性より力が強い。さらに子供を生めるのは女性だけで、男性は出産についての肉体的負担が全くない。女性は一般道徳的に隠すべきとされている性的な箇所が多い。またなぜか男性の方が性的にオープンである(つまり公然とエロい)ことは、18禁の青年誌とされている本の数だとか、女子更衣室を男が覗く場面は漫画等であってもその逆は聞いたこともない(実際にあるとしても漫画に書いて共感を誘えるようなよくある話ではないからそうなる)ことなどから判断して間違いない。

男の方が力が強く性的にオープンなので、性的犯罪なども男が誤って行うことが圧倒的に多く、女性専用車両などの女性優遇措置が行われる。そして一般的にも弱い女性を男性が守るのが適当なあり方であるように考えられる部分が存在する。男性が少し暴言にムカついて男性を殴ってもただのケンカの問題だが、同じ理由で女性を殴ったら何か人間としてやってはいけないことをやったようなことになる。

出産がある女性はその時期に働くわけにはいかず、そのまま子育てに専念するようになる傾向が強いのは当然のことであると思うし、そうなれば平日の昼に客として現れるのは女性の方が多いと商売人は考え、その女性を他店よりも惹きつけるためにレディースデーをもうけたりする。

隠す場所が多いことにより女性には心理的にも最終的に捨てられない部分というものが増え、自分を捨てる(下げる)ことや思いきった下ネタでのみ生まれる類の爆発的な笑いを女性に期待することは難しくなる。

これらはただの区別でしょうか?いやこれらは事実であったとしても、区別より一歩踏み込んだ立派な差別だと思います。

ここまで読んでいただけたなら私が女性を差別している人であるのはもう解っていただけたでしょう。そして

私はそれと共に男性も差別している!

もちろん私は「性別が女性」という以外の根拠が全く無しで、男性よりどこが劣るだとかいう頭の悪い考え方はしたくない。

でも男性の夜道帰りは全く心配ないが女性のそれは心配になる。ムカついて殴るんなら相手が男性でも女性でも一緒なはずなのに、女性にはよりやってはいけないんではないかという考えが頭をよぎる。女性には天然以外の爆発的笑いは期待しなかったり、仲良くなった男性にはアホと軽く言っても冗談で済む様に思えてしまう。

いくら綺麗な人でも男性だと解れば

おもしろニューハーフを見る目線になる。


なんて男女差別野郎だ。
でも悪いことだとは思っていない。
むしろその程度の男女差別をしている自分が正常だと感じる。

皆さんはどうお考えでしょうか?
私は季節感というものが全くないです。
しかし日本には四季があり、日本の人々には季節感というものがあふれていると感じます。それが和の心というものの一つなのでしょうか。
おかげで季節感が全くない私も季節というものを感じて生きていけるのはとてもありがたいことなのでしょう。

春には色んな虫がわいてでます。暖かくなってくれば衣替えもします。冷麺や花火なんかもどんどん売り出されるようになります。私は冷麺やそうめんなどが大好きなので冬でも食べたくなるんです。しかし売り出されない。

別にどうでもいいのに勝手に季節ものにされて

ちょっと迷惑です。


花火だって別に夏だけに限定しなくてもいいのに。まあ冬は空気が乾燥するから火事とか増えそうだからいいけど。
幸いアイスなんかは冬でもコンビニで売ってます。冬に暖房つけてコタツで風呂上りにアイスなんて最高ですね!

あと植物にほとんど興味ないことも季節感がない理由の一つですね。虫とかにも特には興味ないです。あいつらには思考とかないからイマイチ興味が惹かれないのかもしれないですね。生きててふと気づいたときにちらっと何らかの感情が湧くことぐらいはあるでしょうけど。

スポーツなんかも季節に左右されるものも結構ありますが、私が好きなのはサッカーなのでほとんど季節に関係はありません。

唯一考えるとしたら服装でしょうか。これは季節によって格好変えざるを得ないですからね。

春だから花見だとか、夏だから海だとか、秋だから紅葉だとか、冬だからスノボだとか、これらのことは別にそんなにこの季節だからこれやっとかなきゃ~みたいな風に考えたことはありません。風物詩を見てその季節だな~と感じるのって、それでいいのかもしれないですけど、わざとらしい気がしてなんかいちいち反応するのがめんどくさくなるんです。夏だから風鈴つけて、夏だな~って・・自作自演でしょ。なんだか季節感っていうものに踊らされてる気がします。

この時期にはこれやらなきゃって

脅迫観念でもあるのか?
ってぐらいの人もたまにいますね。

別にそんなに季節を煽らなくてもなんとなくで解るって。季節の行事の代わりに一日中麻雀やサッカーに勤しんでも私にはなんら違いはありません。

でも季節感あればあるでたぶん楽しいと思うんですよ、マンネリ化しなくてね。季節感なしでマンネリを感じないでいるには適当な性格や能力が必要とも思いますし。
まあでも私の場合

自分で考えなくても誰かが考えて

計画を立ててくれるので問題無し


ちょっと前まで血液型占いが爆発的に流行ってましたよね。
実は私この「占い」というのも好きではないんです。

厳密に言うと、占いを狂信して物事を判断する人が大嫌いなんです。

占いはエンターテイメントとしてはなかなか面白いものだと思います。今日は自分の運がいい日だと言われれば悪い気はしません。悪い結果をテレビで見ても「あっそ」ってなもんです。

でも「血液型××だからお前はそんなんなんだよ」みたいに決め付けて来る会話は嫌いですね。人間がきっちり4種に分けられるわけないとか、ウチは家族全員同型だけど全然性格違うとか、そもそも占い全般が

全部当たるんなら占い師は占い師なんて仕事やらずに

好きなことやって暮らしていけるはずだろ!
人から金とってまで

するな!とか色んな否定はできますが、嫌いな本質はそこではないんです。


大事なのは占いは当たる当たらないではなく

「信じる信じない」のもの
だということです。


一例を出します。
「今日あなたは100円を拾う」という占いがあったとします。

もしその日100円を拾わなかった場合、これは占いが当たらなかったとするのが当然ですが、「でも何か100円分の得を知らず知らずにしている」とかなんとか苦しい言い訳もできます。

次に100円を拾った場合、これはさすがに当たったと言えると思いきや、「100円を拾ったのは自分の意思で、拾わないとすることも十分できたから占いは絶対ではない」と苦しい言い訳ができたりします。

ではその日200円拾ったとしたらどうですか?
100円はとりあえず拾っています。しかし拾ったのは100円ではなく200円なんです。もうこれは論理的に当たる当たらない、どちらとも言えるしどちらとも言えない。

だから信じる信じないの問題になってくるわけです。

しかしそれを解らずに占いを信じている人にはぬぐえない悪癖が存在します。それは、占いを信じて物事を考えるあまり

自分で物事を考えることができなくなっているのです。

占いを信じない人のことを考えられず、当たり前の様に占いを根拠にした話や行動をしだす。それっていきなり信じてる宗教の話を持ち出してくるのと一緒ですよ?占いを全く信じない人からすれば「火星人が今日は黄色のものを身につけろと頭にテレパシーを送ってきたんだよ。君は赤色を持たないと暗黒神の怒りに触れるってお告げがあったからこれあげるよ」っていう話と実質そこまで変わらないわけですよ!

だから飲み会でなんこつのから揚げ全体にレモンをかけてもいいのかどうか、ぐらいに相手のことを気遣って占いの話はするべきだと私は思います。

もちろん占いを全く信じてない人も、占いを単なるエンターテイメントの一つとして楽しむぐらいの心の余裕は欲しいですね。

私は「かわいい」という言葉が大嫌いです。
それは「かわいい」がほとんどの場合あまりその人の考えを反映しない

安易で無難でおもしろくない言葉

だからです。



「かわいい」がまず人間に対して使われる場合。

異性に対して使われる場合、これは発言者も言葉に責任を持たなければならないことが多く、十分な意思が入っていて問題ないです。

しかし子供やお年寄りに対して使われる場合、これは非常に怪しい!もうほぼ「子供=かわいい」という風に洗脳されていてスイッチが入っただけの言葉です。

村上ショージにとっての

「北海道=でっかいどう」と同じ


です。

こういう人はたいてい「でもあの子はかわいくないね」ということは言わない。自分より下の兄弟とかとも仲良くなかったりする。別にその子供が本当にかわいいと思ったのではなく

話題にしたり、からむのに丁度いいのを見つけた

だけなんですね。



では「かわいい」が人間以外の生物に使われる場合。

これは本当に気持ちがこもっている可能性が高いです。
特に生物をペットにしてしまっている人がかわいいと言うのは本当でしょう。そのペットが可愛がられて幸せかどうかは別にして・・・

ただしここにも偽りの「かわいい」は存在します。
例えばパンダです。
世間的にはかわいいものの代表ですよね?
でも本当にかわいいかどうか自分でちゃんと判断しましたか?
メディアでは日本にはかつていなかったパンダを珍重にあつかって、かわいいものとして宣伝しました。
しかしリアルパンダを本当にかわいいと言うんですか!?
それは檻の中で出られないパンダを見下しているからそう言えるのです。ム○ゴロウぐらいまで頑張れとはいいませんが、かわいいって言うんならせめてパンダを家で飼ってもいいと思えるぐらいでないと。
森の中でいきなりパンダに遭遇したら「かわいい」なんて言いながら近づけますか?

いくら草食でもしばかれますよ?

てかダッシュで逃げるでしょ?何か白黒のばけもんみたいなん出たー!って。
目恐いし。
よだれ出てるし。
獣の臭いするし。


そして最後にキャラクターとかグッズ的なものに対する「かわいい」の場合。

これはもう狂信者的にかわいいと感じているか、もう嫌いじゃなかったら「かわいい」ってことでいいや別にそこまで気に入ったものじゃなくても・・・というものかどちらかでしょう。

つまり、普通では有り得ないぐらいそれ関連のものに固執し、集め、飾ったりする。もしくは、もうほぼどんなものにもすぐかわいいと言ったり、人に意見を合わせてかわいいってことにする。

前者の「かわいい」は

物凄くおもしろくていい!

何せ他人が見たら引くってくらいの情熱がこもってるわけですから。


後者の「かわいい」はおもんない。最悪。

こういうものをかわいいって言う


「私がかわいい」


と自分で思っているか、周りにそう思ってもらいたがっているとんだぶりっ子野郎であることは疑いありません。男にしても女にしても。

言葉に何も感動が感じられない。本当は自分がどんなものを一番良いものだと感じるかもおそらく解っていないんでしょう。
つまり

「かわいい」と連発して

自分にはセンスが全くないと主張してる


わけです。



しかし世の中「かわいい」は多用され、「かわいい」グッズは目白押しです。
そのグッズのどれもが安易で、無難で、「これかわいくない?」と聞けばほぼ間違いなく誰からも「うんかわいいねそれ」という

会話として全く変化のないおもしろくない答え

が帰ってきそうなものばかりです。


本当に何か凄くいいものをそこに感じたのならもっと変化のある言葉が自然と出てくるはずだと思います。



「カッコイイ」って言葉には

同じ様な末路をたどって欲しくないですね。
初回からダウナーな文章しか書いてないので、こいつちょっと

頭がアレなんじゃないの?

って思われるのもなんなので、今日はアッパーなことを書こうかと思うけど、それはそれでテンション高くてやっぱこいつ頭アレやわってことになるかも。


どしゃ降りって楽しいよね?

日曜日サッカーに行って来たんですが、途中で凄い雨が降って来ました。私は傘を持つことがめんどくさく、せっかく持っていっても失くして帰るので(実は今日もバイト先に置いて帰って来た・・・もうパクられてるやろな)ある程度の雨では傘を持っていきません。さらに天気予報を見ないので後から降る雨なんて知ったこっちゃありません。

だから雨に人一倍うたれるんですね。でその時の気持ちは、

ちょっと濡れた→気にならない
そこそこ濡れた→服がペトペトしたら嫌だ
けっこう濡れた→自分はもういいけど紙類やメカが気がかり

ってな感じですが、どしゃ降りでふっきれるぐらいズブ濡れになると、もうめちゃくちゃや何でもいーわ!ってなって

なんかテンション上がってくる!


これは生まれつきのもんなんかも知れませんが、高校時代の影響が大きかった気がします。

私は高校時代の昼休みに友達と毎日毎日サッカーをしていました。もちろん遊びでなんですけど、昼飯は早弁してわざわざ体操服に着替えてトレーニングシューズも履いてやってました。たまに他学年とかと対戦するんですが、雨上がりの昼休みはめっぽう強い。

なぜなら、サッカー経験者は1人しかいませんでしたが、メンバーはもうアホばっかりなんです。人が寄り付こうとしないグチャグチャの場所に嬉々として走りこんで行く!相手が制服で近づこうもんならクリーニング行き間違いなしのドリブルをかますわけです。

文字通り泥試合(泥仕合)に強い!

またゴールキーパーがまたどえらい奴で、水溜りに顔からダイブしてゴールを死守。シュート打った相手は泥しぶきを受けて半泣きです。そしてそのキーパーの奴はもう冗談抜きで

泥から生まれてきたみたいになってるわけです。

中高一貫の学校だったんですが、周りで遊んでたいたいけな中学生はその姿にドン引きでもう同じゴール使うの諦めて帰って行きました・・・

そんなアホばっかりだったので途中で雨が降ってこようがおかまいなし♪むしろどしゃ降りでテンションMAX!いったんずぶ濡れになったら逆に自由で、なんや言うたら水しぶきが全ての動作に合わせて舞うのでカッコイイ!何よりもどしゃ降りでもまだ遊んでるというアホさ加減が自分で楽しくなってくるわけですよ!

めちゃくちゃ楽しかったですね~あの時は。
だから今でもどしゃ降りになるとその中ではしゃいでみたくなりますね。もちろん1人じゃなくて友達とね。

しかし昨日のサッカーでは荷物もありますし他の人は普通に早く避難しようとしてましたから、私もチームプレーよろしくそそくさと避難しました。

他の人はそんな気持ちとかないのかな?子供のときだけなのかな?そのほうが当たり前かな~とも思うんですけど。

でも

どしゃ降りの中でも一緒に笑い合えるのは

本当の友達だな


と私は思っています。
今日は既に眠いので言葉足らずになるかも。

今回はこれからウダウダとブログを書いて行く上で基本となる私の考えを1つ書いてみようと思います。まあ考えは不変ではないのでいつ別の意見になるか解らないですけども・・・


何で人を殺しちゃいけないの?

という問題を例にしてみます。

まずシンプルな答えが1つ、

法律でやっちゃダメって決まってるから!

道徳がどうこう以前に自明の理ですよね。
現在日本でやっちゃいけないことって何なのかを決めた中に入ってるんですから、もう理屈抜きでやっちゃダメなんですよ。当然ですね。

まあ法律の主旨を考えても、人を殺していいなんて社会にしたら世の中カオスに至るってことは『北斗の拳』でも読めばすぐ解ることですよね。


でもまあそういう上からの押し付けみたいなことじゃなくて、理論的に何でやっちゃいけないのかと。


自分が理不尽に殺されかけている時でも相手を

殺してはダメなの?


とか言われたらどうします?



私の意見はダメだけど仕方が無い!です。

基本はやっぱり人を殺してはダメです。これはちょっと聖人君子的な考え方ですね。
でも「自分が○○されるのが嫌だから相手を○○する!」というのは自分勝手な考えだと思いませんか?「いじめられるのが嫌だからいじめる」ということを良いことだと思いますか?私はダメだと思います。

しかし、人間はそうそう聖人君子ではいられません!いじめ云々なら別の方法で解決できたりするかもしれませんが、生き死にの問題となればガムシャラになって当たり前です。実際に今現在自分が生き抜くために色んな生物を殺して食べているんです。食べるだけじゃなく、自分の生存行為のどこかで何かを死に追いやる行為を助長・黙認していることぐらいちょっと考えれば解るはずです。

ならば、殺される前に殺すというのも同じ道理ではないでしょうか。生きるため、生きやすくするために仕方なくやる行為だとしても、それが良い事なわけではなくいけない事であるのに変わりはないはずです。

ここで重要なのは


「仕方無い」ということは「許される」

ということではない!



ということです。

誰かを殺すことに仕方ない理由があったとしても、それだからといって許されるということではないと思います。(法律的には大丈夫だとしても、今は法律論を超えた話ですので。)

その人は、自分が生きるために邪魔な他人を殺したことは事実です。皆ある意味似たようなことをやって生きています。
でもそこで

自分は悪いことをしてでも生きていくのだ

という覚悟を決める


ことが必要だと思います。もちろん悪いことの限度に個人差はあるでしょうが。

それを

自分は他のものを押しのけてでもそれをやるという


「選択を自分でした」


ことは棚にあげて


押しのけたことは許してもらうのが当然だ


なんて考えは悪どくないですか?


でね、こんな大げさな話をくどくどしといて日常レベルで何が言いたいのかというと、
「仕方が無い」とか「誰でもそうする」という理由さえあれば自分の行為はいつでも誰にでも「許される」「見逃してもらえて当然だ」と勘違いしている人が

余りにも多くいませんか?
今日はテレビでバレーボールの大会が放送されてました。
バレーボールにはいつ頃からかジャニーズのグループが宣伝看板として利用されるようになっていますが、それが結構問題にもなっている(いた?)らしいですね。
バレーボールの試合の前に宣伝のためジャニーズが軽いショーをやるらしいんですが、それ目当てで会場にやって来る人が多過ぎて、いざ試合が始まる頃には観客席がガラ空きになるという・・・その状態自体が解決されたかどうかは知りませんが、今でもジャニーズが応援してますね。

あのグループで顔知ってんの一人だけやけど!

で、要するに

本当にバレーが好きなファン

バレーに興味あるのは流行りだからというにわかファン

の問題が出てくると。

まあ普通に考えて

にわかファンさっさと消えろとなりますね。

大して選手も知らない。ルールもろくに知らない。

つまり競技の中身の面白さが解っていない奴らに

ギャーギャー内容の薄いこと言われるとリアルファンとしてはカチンとくる。

でもスポーツ団体側としては正直、にわかファンでもいいから当面のところ取り込んでおいて人気競技にしたらリアルファンも増えてくるだろうということで、メディアを使ってガンガン売りたい。にわかファンとはいえ本当に興味を持ち始めている途中かもしれませんからね。

それで私自身の意見はどうかと言うと

そういう状況は無理してるんだから当たり前
なわけです。
本来地道にファン拡大していくべきところを、スターをでっち上げたり、全く別方面で支持されている人を無理やり結びつけているんですから。

だってあのジャニーズにバレーずっとやってた奴いんの?

いるんならその人のファンにはバレーボールにちょっとその意味で興味があって、そっから本物見たらスポーツ的な面白さに気づくのかもしれない。でも追っかけやってる人は

スポーツ基本ダメそう・・・

まあ追っかけは置いといて、結局宣伝が大きくされようがされなかろうが何かマイナスな要素があるわけで。リアルファンはにわかファンに対しては大人な対応で

ああ・・・

これが有名になるってことの代償なんだなあ・・・


と有名選手が感じている寂しさをも理解してしまえばいいんではないでしょうか。
私はとてもよく鼻歌を歌います。
鼻歌といってもメロディだけを口ずさむときもあれば、歌詞を歌ったり、頭の中だけで曲を流すときもあります。実際にウォークマンなどで曲を聞きながら口ずさむのもアリです。
私は洋楽が好きなのでたまに歌詞とかそこまで覚えていなくて適当に歌ったりします。

鼻歌を歌っているととても気分がよくなります。
すがすがしいときにはすがすがしい曲を、ゴチャゴチャした場所なんかでは暗くハードな曲なんかを流すと自分の世界にバックミュージックがついたみたいで、平凡な光景がすごく色づいて見えるような気がします。

これは密室で自分の思いついた歌いたい歌をかたっぱしから歌っていくカラオケとは全く別のものです。どちらかというとドライブをしながらその場所に合った曲をかけるような感じです。
歩くテンポをドラムのビートに合わせて曲と現実をだんだんかぶせて行きます。すると今度は現実に起こっている音が曲の一部であるような感覚になってくるのです。

私は音楽のそういうところがとても好きです。部屋の中で聞いてこそ映える曲というのももちろんあるでしょうが、曲は周りの風景や状況によって色んな形に聞こえるものなのではないかと思います。
カリフォルニアの陽気なバンドの曲をウォークマンで聴いていたら、その朝は天気があまりにも良くて曲と世界が一体化したように感じられ、ずっとその曲を聴いていたくなって、せっかく早起きして行った学校の授業をそのままサボって曲を聴いたまま近くの公園でひなたぼっこして寝たこともあります。

だから私の鼻歌は、その時はやっているものを色んなとこで聞きすぎてふと口ずさんでしまうというようなものよりも、この状況はこの曲だなあと自分で思って意図的に歌うものや、なんでこんな歌を今思い出したんだろうと自分でも思う様なものが多いです。


でも鼻歌には重大な欠点があります。

それは他人から見たら

頭のおかしな奴になる
ことです。

鼻歌を歌って歩いているときにいきなり自転車に後ろから抜かれたりするとちょっと恥ずかしくなったりします。
でもまあそんなときはまたおっちょこちょいっぽい変なテンポの曲を頭に流すと、それはそれでいいかなあ~という気になりますね♪
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