反骨精神を源に軽い冗談から重い本音まで・・・
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ブログを見ていれば解るかもしれませんが、私には「疑う」というクセがあります。
うさんくさい人に対してだけではなく、自分自身の気持ちについても気がつけば疑いを持ってしまいます。

それは自分のしていることが正しいと信じたいからです。

何かに対してあることをしようと思ったとき、その自分の行動に疑いを持って物事を客観的に考えた上で理論的にその疑いを晴らすことで、自分の考えていることが間違ってはいないと深く信じることができます。

もちろん自分が最初にしようと思ったからには薄くは正しいと思っているんでしょうが、ほんとうに正しいことかどうか、正しくないとしても自分が求めている結果を本当に生み出すものなのかということを考えてしまいます。物事を疑いもせずに鵜呑みにしてしまうことは、自分が何も考えを持っていないのと同じだと思うからです。

もし客観的に考えた上で違う結果を招いてしまい、例えば怒らせるはずでは無かったを怒らせたとしたら、自分の判断がどこか間違っていたのだと即座に自分の過ちを認めることができると思います。

逆に自分勝手な人は自分のことを疑ってないんだろうなあと感じます。
その人はそれまでにミスをしたことがないかもしくは客観的に物事を見るには能力不足ということなんでしょう。自分の思う様な結果と違っただけで不機嫌になる人なんて最初から何も考えていない人よりも迷惑です。


しかし私もいつでも客観的に自分を見つめることはできるません。

それはまず感情が出てくるときです。
私がここでいう感情と呼ぶものは

打算がなく、流されたわけでもない

純粋な自分の感情
のことです。

当然のことですね。例えば、自分より強い相手で自分が負けると解っているにもかかわらず、相手を殺すのも厭わない勢いで殴りかかってしまうのが打算の無い怒りです。
少しでも打算があるのならそれは客観性が既に入り込む余地が存在しているということです。にも関わらず勢いに任せて怒ることで状況を悪化させたとすれば、それはどうしようもないものではなく、単に考えが足りないだけです。
周りの状況に流されて生まれた感情というのも、周りの状況を認識している時点で少なからぬ理性が既に働いていると言えます。

私はそのような自分で抑えようのない感情というものは、そう簡単に体験できるものではないと思います。そしてそういうものこそが本当の感情であり、たとえそれが喜怒哀楽なんであれ

人間が持つ一番素晴らしいもの

に感じられ惹かれます。

そしてそれ以外のもの、理性による制御が含まれながらも能力が不足して起こった、感情のようなものは

嘘の混じった偽りの感情

に感じられ嫌悪を感じます。
念のため言いますと、怒ったフリというものはまるっきり理性なので、好き嫌いはまた個別に判断するとしてここに言う偽りの感情には入りません。私もよくあることなんですが、自分がそんなに急ぐ必要もない時のに行動の遅い人にイラついたりすることが、自分を制御する能力が不足しているだけの、なんの意味もない無駄な偽りの感情なのです。


そしてまた、信じることには疑うこと以外にもう一つ方法があります。それは

信じると決めることです。

私にとっては友達に対しての感情がこれに当たります。
自分さえいつも正しいとは思えていない私が、友達はいつでも正しいと信じることはまず不可能です。
もちろん疑問に思うことは友達ですから遠慮せずに言います。
間違っていると思うことも当然遠慮せずに忠告しあうのが友達です。
そこは個人個人の考え方が違って当然。
しかし、自分には全く判断できないことなのであれば信じたい!
いや、信じるのだ!
もし友達が正しくなかったとしても、自分は友達の味方で良いと思うのだ!
もし友達が自分に嘘をついていたとしても、何かしらの理由があったと思うのだ!
普通にしてりゃあ信じるも信じないも関係ないし、考えることもないし、どうでもいい!

そう思えないのなら

信じれるまで疑いつくすしかない!



人を疑うことは別に悪いことだとは思いません。自分のことまで全く疑わない人の方がどうかいう気がします。しかし人を疑うのは誰かを信じるためというのでなければ少々寂し過ぎるのではないかと私は思うわけです。
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