反骨精神を源に軽い冗談から重い本音まで・・・
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一般的に「勇気」と「蛮勇」は似て非なるものとされている。
蛮勇とはプラスイメージのみで出来上がった勇気ではなく、むしろ無謀といった感覚である。
この違いとはなんなのだろうか。

おそらく現実的には後付け的に区分されることになるのだろう。

例えば濁流の中に溺れている子供がいたとして、平均程度の泳力しかない青年が迷わずその中に飛び込むことは勇気と呼べるだろうか。
たぶん子供か青年のどちらか一人でも助かれば勇気ある行動だと褒め称えられるだろう。両方助からなければ、なんでレスキュー隊をまず呼ばなかったんだと蛮勇扱いされ嘲笑されるのではないだろうか。


しかしここで私が大切だと思うのは「迷わずに」という部分である。

濁流を前に迷わず、自分の泳力も考えず、また考えたとしても全く問題はないと一瞬で判断し、失敗に終わったとすればそれは蛮勇だったと言っても差し支えないだろう。

もちろんそういった蛮勇のみが拓き得る未来というものもある。俗な表現で言えば

最初にキノコを食べた奴はエライ

ということである。

しかし蛮勇とはそうそう上手くいくものではないし、一般的に容易に持ち得るものでもない。蛮勇にはそれなりの自信が必要であり、自信を持てるだけの突出した能力が必要だからである。そして蛮勇敗れる時には気づけば取り返しのつかない状態となるのも稀ではないだろう。また、蛮勇を奮う者は往々にして弱者の心を創造すらできないものだ。


ここで先ほどの例に戻ると、濁流を前にすれば義務でもない限り迷うのが普通だろう。迷いにもいろいろあるが、ここでは「恐怖・不安」と同義の迷いである。それらは生物が自分の生存にとって不利益になりそうなものを遠ざけるための本能として持っているものであるが、私はこの勇気と正反対の意味である「恐怖・不安」を少なからず感じてこそ、賞賛されるべき「勇気」を持ちえるのではないかと思う。つまり

ビビることはとても大切だと思うのである。


もちろん恐怖や不安を感じ過ぎて、自分の能力を過小評価してしまったりしては宜しくない。もちろん恐怖や不安への対処としてそこから遠ざかるというのも賢い方法の一つだと思う。しかしビビり過ぎて何も挑戦することができず、平々凡々とした日々を過ごす・・・いや、平穏な日々を過ごすというのもそう簡単なものではない。自分の単調な生活を守るためにも何かしらの恐怖や不安を乗り越える瞬間が必ずあるはずである。それすらもできずに下手に逃げ続けて悲惨な状態に陥ることが幸せだと感じる人がいれば、それはそれでもう何も言うことはない。だが私は恐怖や不安を感じた上でそれを乗り越えることが勇気、強さにつながると感じるのだ。


勇気を持ち前に進むためには恐怖や不安を感じた時、目や心を閉じるのではなくむしろ通常より開かなければならない。自分とその対象をよく観察し推測し、つまり恐怖や不安に対して迷って、決心することが必要なのだ。
ここで重要なのは迷いと決心の順番を変えないことである。

まだ迷っているのに、恐怖や不安に耐え切れず決心をしてはいけない。自分の中で信じれる決断を下せるまでは迷い続けることに耐えなければならないのだ。そして自分の出した決断を信じることである。盲信や狂信は思考を堅くしてしまうが、決心した後で他の条件が出てきたわけでもないのにまだ迷いを持ち続けていることは愚に他ならないと私は思う。そんなものは決心ではなく決断ではない。その上に生まれるものは勇気ではなく蛮勇ですらない単なる「無謀」である。


なにやらスケールのでかいことを言っているようにも聞こえるが、そんなに難しい話ではない。簡単に言えば、何かにビビることは悪いことではなく、ビビるということはそれに対処するきっかけができるということだ。そして苦難を乗り越えてそのビビった事柄に対処することができれば、それは蛮勇以上の自信を持つことができ、生きる楽しみを増やすことができる勇気と強さを持つことにつながるのではないかと思う。
ケンカが恐ければ、体を鍛えたり人と対立しない様に努力する。
騙されることが恐ければ、もっと頭を動かして他人を疑ったり信用できる仲間を多くつくれる様に努力する。
課題がたまるのが恐ければ、早め早めにコツコツこなしていく。
よくビビる人こそが後悔を無くすことが出来るのかもしれない。


数々の死線を潜り抜けている彼の超一流スナイパーもこう言っている。

「私は臆病なだけだ」と。
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やはりと言っていいのか、昨日の文章への即コメントは無かった。
まあいきなり一ヶ月後にブログを書いてそれをピンポイントで見てもらうというのが有り得ない話なのだが、実際仕事でもないのに毎日書くということはとても難しい。

もちろん何気ない日記でいいのなら毎日数行でも書けるかもしれないが、今までここでエラそうに散々理屈をこねまわし熱を吹いといて、いきなり「今日は服を買いに・・・」などという文を書くのもナイ話だ。


つい最近読んだ近年の哲学の文章で
「『知』は対象に対しては様々な分野の論理を自由に組み合わせて普遍的な新しい論理を作るものであり、他人に対してはその知がいつか誰かによって崩壊させられ更新させられ新たなる知への土台となる可能性があるということを受け入れて議論の場に曝すものであるという本質を持つ」
といった様なことが書かれていた。
つまり、『知』というものは、何を使ってもいいから皆が納得できる筋の通ったものにしなければならず、さらにそれを表に出していつでも誰でも反論したりできるようでなければならないということ、だと私は理解した。

確かにいくら正しいと思える考えを抱えていたところで、それを他人と議論もせず、改善される余地がそれ以上ない完璧なものと思い込んでいるのでは、それは理論立てられた『知』ではなく単なる『狂信』『盲信』にしかならない。「たぶんそうだ思うけど違うかもしれないし他人に言う自信がない」といったものでは『知』とまでは呼べないというのもうなずける。

私のこのブログも、多分に勝手で自己満足なものではあるけれども、時には自分の知の議論の場となって、あわよくば誰かの意見によって新たな知の創造に至ることができたら本望だ。



しかし、私がそんな文章を書くのにはテンションというものが必要になってくる。

理屈をこねまわしているのは普段からのことなので、ネタを考え出したらキリがないのだが、それを一気に言葉に出して稚拙ながらも文章にまとめ上げるのには、文章を書こうというテンションが必要になるのだ。
テンションに任せて書いていると、後になって説明不足だと思えるところがあったり、初めの予定とは違う方向へ展開してしまったり、「です・ます」調と『だ・である』調が混在してしまったりするのだが、それもまた現在の自分の文章の特徴としてあえてそのままにしておこうと思う。

そのテンションというのが、毎日毎日容易に維持できるものではないので更新がしにくいのだ。特に私は文章を書く時は独りにしてほしい性格なので、内なるテンションはあっても状況が文章を書くのに適さないということもある。

また、実際こんな堅い文章を読む立場になってみれば

かなりめんどくさいだろう。

となればそれが毎日毎日更新されても飽きに繋がることになる。そうなってしまうのは双方にとってよろしくない。
まあこれは後付けの言い訳だが。


そこでとてもいいことを考えた♪

このブログを週刊連載にしよう!

完璧な週間連載ということではなく、一週間に2~3回のときもあるかもしれないし、冨樫義○のように急にその週はなくなるかもしれないが、まあ1週間に1回を目安に書いてみようということだ。

そうすれば私自身テンションをわざと上げたりしなくても自然とモチベーションが上がる瞬間がありその時に書けばいいので、文章を書くことがさらに楽しくなるというものだ。

また見てもらう方々にとっても、いつ再開するともしれないという部分は完全にはぬぐいきれないにしても、そこそこ間があくと予め解っていれば待ってもらえて、内容も暇なときにしっかり読んでもらえて、週1なら濃いコメントも毎回残してもらえるに違いない!
ひっそりと更新です。
もう皆閉鎖したと思ってるかな?
何度も見に来てくれても「ザ・ワールド」で時が止まっている。
9秒しか止めれないはずでは・・・
これはホントもうどう謝っても嘘ですね。

何が嘘かといいますと、何回も同じことで謝っていて、いくらしんどくても本当に申し訳ないなら頑張って更新すればいい話です。
一時間以上はかかると言っても寝たり食ったりはしてるわけだし、本気になれば外出してても漫画喫茶とかに行けば更新できるのだからとても簡単なこと。
でもまあ所詮生き死になどにはほど遠いブログだから今日はもういいだろうという考えに間違いなくなっているわけです。


だからもうここで謝るのは悪どい

開き直るのとはちょっと違います。開き直る場合は、悪いとも思っていないし自分の行動に責任をとろうとしない状態です。
例えば「お前ブログも更新できない本当に継続性のない奴だな!」といわれたとき、開き直りは「いや、あれは仕方なくて・・・」てな感じです。
私の場合はもう自分の決断でこの状態になっていると解っているわけで、つまりある程度その結果発生する事態も予想して受け入れているべきなのです。上記程度の言われようなら容易に予想できることですし、予想できていなくてそれに対して憤慨するようでは、それは想像力がもの凄く足りてないということで、上記以上の酷なことを言われるのも止む無しでしょう。
だから「ほんとにそうだね。直すべきところだと自分でも思うよ。」と素直に非を認めるのが適当だと私は思います。


ではなぜ謝ると悪どいのか。

それは謝ることは免罪符だからです。

ただ単に謝るということを純粋に考えれば「迷惑をかけて悪いと思う気持ちの表現」となりますが、そうは言ってももはや現代において謝るということはそれ以上の意味を持っています。

例えば自分が悪いという気持ちがなくても行うべき「礼儀作法」であり、「相手に許してもらおう」という意図をふんだんに含んだものであり、「謝ったのだから、自分は悪いと思っているのだから、少しは自分のやったことが許される(べきなのだ)」という免罪符となるのです。

これはもう私の中では謝るという行為について、あえて意図しないでも自然についてくるもので、おそらく私以外の人もそうなんではないかと思います。謝ったら心のどこかで「許されよう」という気持ちが生まれるということです。それがちゃんとその後相手に対して何らかの償いをすることにつながれば良いのですが。
まあどちらにしろこのブログに関しては、予期しないミスではなく自分の決断(←それがもし仕方ないと言えるものだとしても自分の決断であることに変わりはない)であるので、自分でわざとやっといて後で簡単に許されようというのがそもそも調子のいい話、つまり悪どいのです。謝るという行為にはこういった要素がついて回ると私は考えます。



逆に言えば、人は日常で「謝る」ということにおいて、本当に相手が反省しているかどうかということよりも

謝る行為そのものを相手に求めている

ことも多いのではないでしょうか。
「ああ、ごめん」だと許せなくて「本当に申し訳ないです」だと許せるのなら、それは謝る行為、その正しい形だけを欲しているのです。そんなことは少し賢くてプライドの操り方を知っていれば誰にでも簡単に出来ることです。でも本当にそれでいいですか?深く頭を下げた相手の見えない顔が舌を出しててもいいんですか?

これは

日常本気で怒ることは無い

ということともつながってきます。それについてはまた後日詳しく書きたいと思いますが、何か本気で怒っていないからこそ「すいません」の一言で「まあ謝ってるし、人間誰にでもミスはあるから・・・」とかなんとかで許せるわけです。

そして人間誰でもできることであれば自分のミスを、そういった風に謝りと引き換えに簡単に許して欲しい。その「欲」が人を謝る行為へと導く一つの理由となるのは間違いのないことだと思います。

問題は自分の中のその許して欲しいという欲に気づいているかどうか。
自分が謝るということにはそういう欲が少なくとも混ざってしまうものだと解っているかどうか。
解っていれば、その欲だけでなく本当に悪いと思う気持ちがあるということを、謝るだけでなくその後の自分の姿勢を正すなどによって示すはずです。
解っていなければ、ただ謝っただけで自分でも知らず知らずのうちに何となくちょっとは悪くなくなった気になっているんではないでしょうか?

もしあなたがそうでないと言うなら、謝るということについて形式的なことでなく、本当の意味での心からの反省と謝罪を求めているというのであれば、

本当に反省しているからこそ

私は敢えて言葉で謝る必要はないわけです


ニヤリ
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