反骨精神を源に軽い冗談から重い本音まで・・・
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―Tis the season to be jolly but
  I hate Christmas
  I'm glad it only comes one time a year―
                         (#DECK THE HALLS/zebraheadより)


さて、まあクリスマスイヴなわけですが。
うん、まあ昔はね、この日にかこつけてタダでプレゼントがもらえる嬉しい日でしたがね。
ええ、まあ好きじゃないですよ今はもちろん。でもまあ意味は解っているつもりです。
とりあえず今の日本においてクリスマスは、クライスト(キリスト)は全く関係なく、サンタとトナカイとプレゼントで構成されています。そしてそこにケーキやらチキンやらシャンパンやら家族愛やら恋愛やら恨み嫉み妬みなどがトッピングされ、日本全国を挙げてのお祭り騒ぎとなっているわけです!

お祭りは私は嫌いじゃないですよ♪楽しいイベントですからね。気の合う仲間とでも、普段は変化のなかなか無い日常を送っていたとして、クリスマスというきっかけがあることによって集まって楽しむことができたりするわけです。そういう利点は確かにあります。

しかし問題は

この祭りがほぼ全員強制参加であるということです!

普通の地方で行われる祭りであれば、気が乗らなかったり祭りが嫌いな人は家に引きこもるなりどこか違う街へでかけるなりすれば祭りを避けることができます。しかし、クリスマスだけは別です!こと日本にいる限り何日も前から全国がこの日のために準備を行い、盛り上げようとしている中でその存在を意識せずにはおれません。なのでクリスマスを無視して過ごしたとすれば、全員参加の雰囲気がただようがゆえに

参加しないではなく、参加できなかった人

の烙印を押されることになるのです。

普通の日を送っただけでは

この日を楽しめなかったのだとマイナス判定される


様なことになってしまうのです。


これはさすがにおかしいですね。そりゃ楽しむ奴は好きなように他人に迷惑かけずに楽しめばいいけど、普通に過ごすことがちょっとダメな様な「せっかくクリスマスなのに」みたいな考えが蔓延してるのがどうも解せません!
まあそこも自虐的に笑いに持っていくチャンスとできるならば問題はないのですが。

そしてまたクリスマスという祭りにはなにかこう優先順位が高い人と一緒にいるべきでプレゼントをあげる(もらう)べきといったような義務が存在します。
そしてこれも全員参加なだけに全員に義務が課されているわけです。まあ二股なんかをかけていて勝手にピンチになるのは自業自得なのでなんとも思いません。しかしクリスマスの日に一緒にいる人が一番優先順位が高い人と必然的に見なされ、1人で過ごすのは大切な人がいない人・一緒に過ごせないかわいそうな人、と勝手に思われ自分でもなんとなくそんな気になってしまうわけです。また、子供にとっては素晴らしい権利であった嬉しいプレゼントも年をとるに連れ、あげていない(もらっていない)のは良くない(残念な)こととされ、結果

楽しむために考えたはずの制度が

楽しめない人を作り出している!!


という非常に矛盾した現象が起きているわけです!!!!

楽しむためにあるクリスマスという日が理由で、他の日なら問題ないことが許せない、悲しみや怒りのもとになるなんて、ほんとに自分の意思がなく周りに流されるままに感情を出して勘違いしているただのアレです!

だから私はこういうスタンスでいます。
今日でも明日でも明後日でも一週間後でも、重要なことは楽しむことなんだ、そして楽しみは強制するもんじゃない、と。
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―子供がかわいいって?ああ、君にとっちゃ犬畜生みたいなもんだからね―
                               (民名書房刊『魔酔いの森』より)


私には長年結論が出ずにいることがたくさんありますが、その一つが子供がやらかした迷惑行為について、いったい誰を責めるべきなのか?ということです。

もちろん日本では子供は責任など自分でとることはできません!どれほど能力があろうと、責任は保護者に問われるもので、子供はどれだけえらそうなことを言おうと所詮一人前にはなれないのです。

とはいえ、実質的に責められるのは本人であるべきだろうという状況は多々存在するんではないかと思います。その意味で、責任を問われるべきなのは誰かということが今回考えたいことなのです。


まず、どこからが子供かということが問題です。法律的には14歳未満は処罰されませんが、これには子供の未来についての更生を社会的に期待している部分があるので、行為に対して純粋にどこかに責任を問えるのではないかという私の今回の考察には適用されません。

難しいところですが、さすがに高校生にもなればバイトもできて稼いでいける世の中なので、本人に対する他者の制限が難しく、良くないことをすれば100%本人を責めてもいいのではないかと思います。

主観的には、小学校高学年ぐらいから自己責任は問われてもいい気がしますが、さすがにその年の子に全ての自己管理を求めるのは厳しいかと思います。子供は基本的な能力について個人差がありすぎるので年齢という基準では区別しきれないというのが現実でしょう。

まあここでは便宜上、一応中学生以下を、無条件に自己責任100%とはされないという意味での子供扱いにすることにしましょう。


このとき、責任を問える対象は、

本人・保護者・環境

が考えられるのではないかと思います。
特別な条件は他にもありえるかもしれませんが、一般的なものを考えるとこの3つにいきつくのではないでしょうか。


例えばグレた子供ができたとして、高校生にもなって社会に迷惑をかける様なことをしていればそれは100%本人のせいです。
では中学生でグレたとすれば・・・もしかしたら親が飲んだくれで荒れ果てた家庭環境が原因かもしれません。グレるという虚勢をはらないと周りからさげすまれる環境なのかもしれません。そいういった保護者や環境がなければその人はグレて社会に迷惑をかけることもなく立派な中学生になっていたかもしれません。

しかし、似たような状況でも、グレずに頑張っている人はいるでしょう。その人は虚勢をはらずにイジメにあっているかもしれません。親から暴力を振るわれているかもしれません。でも決して自分が迷惑をかけていることはない。これは評価されるべきなんではないでしょうか?

だとすれば前者のグレてしまった人は、後者の生き方を選ぶことが可能ではあったが、さすがにそれは嫌ったための行動であり、やはりその人の意思でグレた要素があることを否定できないでしょう。となれば責められる部分が皆無であるとは私には思えません。


単に電車の中で親連れのうるさいガキがいたとして、それは保護者にも子供にも100%の責任を問えるとも思います。親は大人なので空気を読むことを完全に求められます。自分の子供を黙らせるのは当然です。子供が他人にひっぱたかれたら文句言うくせに、親である自分がしからないというのは完全に自分の立場を解っていない頭のアレな人です。

そして子供も、会話が出来るレベルになれば、他人の言うことは解るはずですし、他人の様子も観察できるはずです。子供をなめてはいけません。子供は自分の有利になるように常に物事をものすごいスピードで貪欲に学んでいます。ただ論理的思考が未発達なので、自分の利己的本心をバレないようにする術が稚拙なだけなのです。

だとすれば、電車内では他の人が静かにしているということを知れば自分が騒いだら浮くという感覚は存在するはずなのです。だから一人ぼっちのときは静かです。静かにする能力は確かにあるのです。しかし知り合いがいるともう話したい欲望を抑えられない。これは子供のわがままと言えるんではないでしょうか?

子供は赤の他人に嫌われることを厭わないということもありますが、それにしてもやはり他人に迷惑が多少かかることは少し考えれば解ることで、考え足らずを指摘されても仕方ないように思われます。



結論がなかなか出ない話なのですが、とりあえず私は

聞き分けの悪い子供が

理解力のない大人と同じくらい大嫌いです
ってゾノが言ってたから、イジメはダメなんです。個人的にはね。
あとイジメはおもしろくないからというのもありますが、おもしろい人もいるわけだから何の論理にもなりません。
とはいえ、イジメは普通にしていてもなくならないと思います。
人は誰でも本能レベルで気味の悪いものや気にいらないものを嫌い避けようとします。これは動物として生き続けるために当たり前のことですね。あとは個人が何を気持ち悪いと感じるかによってその対象がかわるわけで、例え相手が人であっても気持ち悪いものは気持ち悪いのです。そしてそれを嫌う。それに伴う行動をはっきりとすれば、相手はいじめられたと感じる。というわけです。いたって自然な行為といえるかも知れません。自分のことだけを考えるのならば、ですが。


ではなぜそれでいけないと言われるかというと、私が思うには和を必要とする集団の中で明らかに人が傷つけられているからです。

まず大前提として人はいじめられることを嫌うということがあります。その人の嫌がることをするのがいじめだとも言えるのでそこは問題ないでしょう。
そして、和を必要としない集団であればいじめなど問題にもなりません。弱肉強食が当然といったところでしょうか。ですが日本国という集団では和は必要とされていますし、学校やクラスといった集団ではさらに重視されます。誰もいじめられたくないし、見たくもないので、いじめがある集団に自分が属していることを不安視する人が出てくるからです。そしていじめという行為がそもそもダメな行為だと批判し始めるのです。
しかし道徳的にダメな行為ということはさすがにいじめる側も解っていてやってるので通じません。人間としてどうこうではなく、いじめを行えば集団に属する者として不適格と判断されるということを上から教えてやらないと無理なんではないでしょうか。しかし不適格者を最終的には集団から排除するとすれば、それこそいじめだとなってしまうのでしょうか?そうだとしても私は、いじめを好む人たちはその人達に合った弱肉強食の世界に行くべきだと思いますし、いじめを好まない集団から排除されなければいじめはなくならないと思います。

そしてまた「明らかに傷つけられている」という部分も重要です。
明らかでなければ誰も声高らかに批判できない問題なのです。

いじめがダメだと世間で言われるのはかわいそうだからです。

ここはとても重要です。かわいそうじゃないと、いじめられる方にも問題がある、とか理不尽なことを言われるわけです。余りかわいそうではなく酷くも見えないものはいじめとして問題にはならないのが今の世の中なんです。
なぜなら、小さないじめはよくあることだからです。自分でも、好きな人をひいきしたり、2人が共同で悪いことをしたのになぜか片方だけの印象を悪くしたり、そんなことを考えると、いじめられている側に良くない行動があって他人の印象を悪くした結果が当然に出ているだけだとも考えられるからです。最初に述べた通りいじめの要素は本能的に誰でも持っているので軽く全否定はしにくいのです。

そこで私は

いじめに似た行為も許すべきでない
ということを言いたいです。

道徳論だけでいじめを語ると、いじめてなければOKとなりますが、そんなことではいじめる側が圧力をかけていじめていない側に遊びだと言わせれば余裕でいじめが続けられます。そうではなく、集団心理としていじめという状態が生まれることが恐いのだという理由を正直に述べ、その類似状態も許さないようにしなければなくならないでしょう。
ただそうすると笑いが減ることは免れませんが・・・
許すべきでないとは、罰をつくるべきということで、私は集団からの排除が最終的になされなければいじめはなくならないと考えていますが、それをせずに、各個人がいじめをどう解釈するかは置いておいてもとりあえず集団から類似状態も含めて全て無くしてしまわなければならないものだと思って気をつけて行動できるのならば、いじめはすでになくなっているのではないかとも思います。
死刑になるかもしれないと解っている殺人でさえなくならないこの世の中で、いじめに対しては集団からの追放さえしないというのであれば、なくなるわけもないんではないでしょうか。
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