反骨精神を源に軽い冗談から重い本音まで・・・
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ひっそりと更新です。
もう皆閉鎖したと思ってるかな?
何度も見に来てくれても「ザ・ワールド」で時が止まっている。
9秒しか止めれないはずでは・・・
これはホントもうどう謝っても嘘ですね。

何が嘘かといいますと、何回も同じことで謝っていて、いくらしんどくても本当に申し訳ないなら頑張って更新すればいい話です。
一時間以上はかかると言っても寝たり食ったりはしてるわけだし、本気になれば外出してても漫画喫茶とかに行けば更新できるのだからとても簡単なこと。
でもまあ所詮生き死になどにはほど遠いブログだから今日はもういいだろうという考えに間違いなくなっているわけです。


だからもうここで謝るのは悪どい

開き直るのとはちょっと違います。開き直る場合は、悪いとも思っていないし自分の行動に責任をとろうとしない状態です。
例えば「お前ブログも更新できない本当に継続性のない奴だな!」といわれたとき、開き直りは「いや、あれは仕方なくて・・・」てな感じです。
私の場合はもう自分の決断でこの状態になっていると解っているわけで、つまりある程度その結果発生する事態も予想して受け入れているべきなのです。上記程度の言われようなら容易に予想できることですし、予想できていなくてそれに対して憤慨するようでは、それは想像力がもの凄く足りてないということで、上記以上の酷なことを言われるのも止む無しでしょう。
だから「ほんとにそうだね。直すべきところだと自分でも思うよ。」と素直に非を認めるのが適当だと私は思います。


ではなぜ謝ると悪どいのか。

それは謝ることは免罪符だからです。

ただ単に謝るということを純粋に考えれば「迷惑をかけて悪いと思う気持ちの表現」となりますが、そうは言ってももはや現代において謝るということはそれ以上の意味を持っています。

例えば自分が悪いという気持ちがなくても行うべき「礼儀作法」であり、「相手に許してもらおう」という意図をふんだんに含んだものであり、「謝ったのだから、自分は悪いと思っているのだから、少しは自分のやったことが許される(べきなのだ)」という免罪符となるのです。

これはもう私の中では謝るという行為について、あえて意図しないでも自然についてくるもので、おそらく私以外の人もそうなんではないかと思います。謝ったら心のどこかで「許されよう」という気持ちが生まれるということです。それがちゃんとその後相手に対して何らかの償いをすることにつながれば良いのですが。
まあどちらにしろこのブログに関しては、予期しないミスではなく自分の決断(←それがもし仕方ないと言えるものだとしても自分の決断であることに変わりはない)であるので、自分でわざとやっといて後で簡単に許されようというのがそもそも調子のいい話、つまり悪どいのです。謝るという行為にはこういった要素がついて回ると私は考えます。



逆に言えば、人は日常で「謝る」ということにおいて、本当に相手が反省しているかどうかということよりも

謝る行為そのものを相手に求めている

ことも多いのではないでしょうか。
「ああ、ごめん」だと許せなくて「本当に申し訳ないです」だと許せるのなら、それは謝る行為、その正しい形だけを欲しているのです。そんなことは少し賢くてプライドの操り方を知っていれば誰にでも簡単に出来ることです。でも本当にそれでいいですか?深く頭を下げた相手の見えない顔が舌を出しててもいいんですか?

これは

日常本気で怒ることは無い

ということともつながってきます。それについてはまた後日詳しく書きたいと思いますが、何か本気で怒っていないからこそ「すいません」の一言で「まあ謝ってるし、人間誰にでもミスはあるから・・・」とかなんとかで許せるわけです。

そして人間誰でもできることであれば自分のミスを、そういった風に謝りと引き換えに簡単に許して欲しい。その「欲」が人を謝る行為へと導く一つの理由となるのは間違いのないことだと思います。

問題は自分の中のその許して欲しいという欲に気づいているかどうか。
自分が謝るということにはそういう欲が少なくとも混ざってしまうものだと解っているかどうか。
解っていれば、その欲だけでなく本当に悪いと思う気持ちがあるということを、謝るだけでなくその後の自分の姿勢を正すなどによって示すはずです。
解っていなければ、ただ謝っただけで自分でも知らず知らずのうちに何となくちょっとは悪くなくなった気になっているんではないでしょうか?

もしあなたがそうでないと言うなら、謝るということについて形式的なことでなく、本当の意味での心からの反省と謝罪を求めているというのであれば、

本当に反省しているからこそ

私は敢えて言葉で謝る必要はないわけです


ニヤリ
再び無断で長期休暇をとっていてどうもすみませんでした。
ここを何度も覗いてくださった皆さんには申し訳なく思っておりますし、もしかしたらもう実質閉鎖したと思われて見てくれなくなった人もいるかもしれませんが、これからのブログの頑張りによってお詫びに変えさせていただきたいと思っています。

ところで長期休暇の理由として海外旅行があったわけなんですが、以前ブログで書いた通り、旅行というものにおそらく一般の人達よりは特別なものを感じていないであろう私も、初めてと言ってもいい純粋な遊びの海外旅行だったので好奇心は高まっていくのでした。

とはいえやはり大きな目的のない旅行というものは名所を回ることがメインになるもので、その中で本当に自分が興味があって感銘を受けるものなどそうそうあるものではありません。感銘とまではいかずとも、雰囲気を味わって知識を蓄えて、それでも所詮は一期一会なんだろうなあと考えてみれば、3000年の歴史も100万ドルの夜景も

ひと夏の思い出に過ぎない

と感じられるのでした。


しかし、海外旅行はとても面白いものだと私は感じました。国内旅行とは一線を隔した面白さがあります。それはひとえに

知らない物事が溢れている

ことにあります。

もちろん人間が住んでいるところであり、最低限の基礎的な知識はあります。しかし、言葉をはじめ、地理、風習、現地人の考え方、様々なシステム、普通にしていて自分がどの様な存在としてとらえられるのかなど、知らないものや想像しがたいものがいたるところにある環境にいるという小さな子供だった頃にしかありえなかった状態を海外旅行では経験することができると思います。

普段なら何気なくできていることでも、海外であれば方法を考えなければならない。いつもと同じ様にできるのか否か。自分のやりたいことがあれば積極的に動かざるを得ない。
そこで普段よりも強く出てくるのは

知ろうとする姿勢です。


そんなに興味の無いものだったとしても、本当に興味のないものなのかが一瞬では判断しにくいため、結局はちょっとそれを調べたり推測してみることになります。
この知ろうとする姿勢がとても日常を面白くするものだと私は思っています。


「そんなこと生きるのには必要ない、意味ない」だとか言って簡単な常識を学ぶことを拒否したり、自分が知らないことを正当化しようとしたりしている人をテレビで見たりすると、なんてつまらない人なんだろうと思います。
確かに、自分が全く興味がない分野というものは存在しますが、それでも機会があれば最低限の常識ぐらいは知っていてもいいんじゃないでしょうか。そういった知識の積み重ねと知ろうとする心が、想像力を生んだり空気を読める感性を生むことにつながると私は思います。逆に想像力が乏しかったり空気が読めない人はいくら知識があっても常識がないと言って問題ないです。

これに加えて言いますと、「○○なんて人生にとって意味ない」なんて冗談でなく言っちゃう人は単に逃げてるだけに過ぎないと思います。それで何か他のことに人生をかけたりするのなら間違ってないですが、そうでもないのならじゃあ人生にとって意味のあることってなんなんですか?と聞きたいですね。あなたは常に人生に意味を求めて、意味のあることばかりやっているんですか?なんとなく生きてる部分はないんですか?もう全部解ってるの?そうだとしても、あなたが未来のために何をやっていたところで10分後に交通事故で死んでしまえばあなたのやっていることは全て無意味なものですね。ということになってしまします。

別にトリビアの信者ではないですが、何か物事を知ろうという姿勢に、生きることの一つの熱を生み出す要素が備わっていると感じていて、今回の海外旅行において近年まれに見る知識欲が自分の中に湧いたのを感じるのでした。
最初にまず今まで更新をサボっていてごめんなさい。いろいろ用事はあったんですが更新やろうと思えば出来たのに寝たりしてました。その間覗いてくれた人すいません。これから頑張って更新するのでどうか長い目で見てやって下さいませ。

というわけでこれで生ぬるい内容を書くわけにはいかないので、お詫びとして今日はダウナーでヘヴィなことを書きたいです!

世の中には自分に害を為すものがいっぱいありまして、それは誰かが行動を起こしたせいで自分にとって害になるということが多々あります。
そうなると「あいつが余計なことしなければ」とか「あいつムカツク」とか思ったりするわけですが、その思う度合いは様々な条件で変わると私は思います。


例えば一番解りやすいのは友達か赤の他人かです。

例えば足を踏まれたとして、他人ならちゃんと謝って欲しいもんですが、友達ならそんなこと気にしなくていいよ謝る程のことじゃないと許せたりします。
まあどちらにせよ足を踏むなんてことは誰にでもよくあるミスだと考えられますしそこまで大した害にはならないので許し易いでしょう。

ではそうではなく自分を害した行為が故意にやられたものであった場合、何が一番自分にとっての質の悪い『悪』で許せないものなのでしょうか?


そこで今回問題とする条件は

悪意でやったか・普通にやったか・好意でやったか

ということです。

パッと見るとそりゃあ悪意でやられた行為が一番ムカツクんじゃあないかと思うでしょう。しかし実際はそんなに簡単なものではありません。
例えば自分の大切な宝物があったとして、それが3人の知り合いに捨てられたとします。
彼らは各々こう言います。
「君が嫌いだから捨てた。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・悪意
「あれが嫌いだから捨てた。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・普通
「あれを持っていると君にいいことないから捨てた。」・・・好意


①まず悪意の場合

悪意に悪意は向け易いので、非常に怒り易いですね。

怒る理論も単純で済みますしね。善悪が誰の目から見ても明らかなので、逆に言えばその行為を行った相手もそれを解っていながらやったと言えるわけです。となるともはやその相手は敵です。解り易いかたちになります。一見これが一番タチが悪い様に見えます。


②次に普通の場合

これは相手が自己中心的な人という感じですね。それが結果的に自分に害になってしまった。しかし相手に全く悪意はないんですね。最初は「なんでいけないの?怒ることじゃないでしょ」といった感じです。ほら、単純な悪意よりこっちの方がタチが悪い様に思えてきませんか?
最後には悪いことをしたと謝る人もいるでしょう。しかしそれで許したとしても相手の自己中が治ったわけではないので、またすぐ普通に平気で害を受けることになるでしょう。そういう人は他人の気持ちを深く考えることをあまり知らず

平気で生き物を殺す子供の残酷さ

に似たものを持っています。


③最後に好意の場合

これは好意と解っているだけに怒るに怒れないことが多い。

やり場の無い怒りだけが残ります。そして相手はどれだけ自分に害を与えてもずっと自分の味方なわけです。
一般に、敵だと最初から解っている敵と・味方だと思っていた敵では後者の方が自分にとって被害は大きくなるでしょう。それは味方にはやはりある程度のことを期待しているからです。それ自体は変なことではないし期待できるからこそ味方だと思えます。しかしそれが結果的に有り得ない程度にまで裏切られた場合というのは、本当に何よりも困るものです。それならば最初から期待させてくれなければ良かったのにといった具合です。

それと同様なことが起こるわけです。

好意に悪意は向けにくい

けれどもその行為はズレた好行為で、放っておけば自分にとって害になるわけです。
悪意は向け易いでしょうが、ストーカーなんかこれの典型でしょうか。相手がいいことをしていると思っているだけに相手に自分が被害をくらっていることを解らせるのがとても難しい!単純な悪意よりも数段状況が複雑になっていてどうすればいいのか解らない。とてもやっかいですね。これが実は一番タチの悪い『悪』かもしれません。


解っていて悪いことをする人、何も考えず悪いことをする人、いいことをしているつもりで悪いことをする人。どれが純粋な『悪』でタチの悪いものだと思うかは個人の価値観ということでしょうか。
環境問題でも人間関係でも笑いでも何でもいいです。何かに悪を感じたとき、

自分にとってどれが一番悪なのかを考えてみて下さい。
こないだ心霊スポットってとこにドライブに行ってまいりました。
友達の急な夜襲&思いつきにより、肉体労働系仕事による疲れ・深夜故の激しい眠気・夕飯を食べていなかった空腹・狭い山道などの好条件がそろっていたにもかかわらず何も起こることはなく当然のように無事に帰って来ました。
ただ行って帰るのもなんなんで後々の楽しみのため写真をしっかりとって、ついでに車から降りて閃光花火をしてきました。

要するに幽霊なんていなかったんですよ。まあこれもいるいないというよりは、

信じる信じないの問題だと思います。

占いのとき(7月7日のブログ参照)と一緒ですね。どちらにしても楽しむ程度ならなんら問題ない。普通に気の知れた人同士ならお互いは信じてる信じてないは置いといて話題にして議論したり楽しむのもアリですけど、その価値観を相手に押し付けたりするべきではないし、このことは信条に関わることだから、反対意見の人に迷惑をかけたり不快感を与えることが大いにあるんだとよく気をつけないといけないことだと思います。

私は全く信じてませんから「見たことある」とか普通に言われたら「嘘つけ」となってしまいますが。だってねえ、点が横に二つとその下に棒線があれば人間にはそれが顔に見えてしまうものなんですよ?人間は想像力が豊かなんです!あと蜃気楼とか、意識が混乱しての不確実な認識など視覚の限界もありますし記憶の限界もあります。もう反論意見が山ほど出てきますからね。
まあでもそこは見たと言う人からすれば見たのは見たんだからねえ・・・


あとたまに神様は信じなくて幽霊は信じるって言う人がいるんですけど、それはちゃんと物事考えてんのか?って思いますね。
逆は解りますよ、神様や仏様は教育(説法)によって信じる様になることがありますからね。幽霊は教えにないから信じないってのはありうる。さすがに幽霊がいるんだぞって教育は今のとこ聞いたことない。
でも自分で考えて感じて幽霊信じてるんだから、生を超越したものの存在はアリと考えてるんでしょ?じゃあ神様いるかもしれないんじゃないの?見えるとか感じるっていう幽霊は幽霊じゃなくて神様に属するものかもしれないでしょ?なのに何で神様は否定するの?
これ幽霊信じてる人がいたら試してみてください。神様は信じているのかどうか。そしてその人が神様を信じることをバカにしたらその人に言ってやりましょう。じゃあお前も同じアレなんじゃないか(笑)、って。


まあここらへんは、信じてる人達はまず疑ってかかってないですからそんなに自分で考えてないんで仕方ないんでしょうけどね。
でもそんなこと信じてる信じてないってだけでその人とウマが合わないってなるのもちょっと極端でそうはなりたくないですよね。


つまり何にせよおもしろければいいわけですよ!

おばけ信じてなくてもおばけ屋敷とかなら楽しめますし恐くなくてもびっくりはしますしね。ただもうマジメにそんなこと話し出すのはちゃんと文句とかもお互いぶっちゃけて言い合えるぐらいの仲になってからにしようね、ということです。


でまあね、肝試しで一番なにが恐かったのかっていうとね、もちろん幽霊ではないんですよ、信じてませんから私は。
暗闇そのものってのは少しあります。目が見えている人にとって暗闇は恐怖だと私は思います。かなりの情報がいつもより遮断されて不安感が出てきますからね。
あと自然も恐いですね。ヘビとかそういうのも含めて。落石注意とかね。
でもやっぱり一番恐いのは

人間です!

ほんと恐い。
夜の山道とかまず普通の人はいるわけないんだから、おかしい人やらいそうだし、山道を攻めてる走り屋に巻き込まれたくないし、族の人やらたむろってるかもしれないし、人がいただけでびびりますよ!もうおどかすだけなんならいっそ幽霊であってくれと。
まあ夜な夜な山道で閃光花火をしてた私たちも他人から見れば十分恐いんでしょうが。
ブログを見ていれば解るかもしれませんが、私には「疑う」というクセがあります。
うさんくさい人に対してだけではなく、自分自身の気持ちについても気がつけば疑いを持ってしまいます。

それは自分のしていることが正しいと信じたいからです。

何かに対してあることをしようと思ったとき、その自分の行動に疑いを持って物事を客観的に考えた上で理論的にその疑いを晴らすことで、自分の考えていることが間違ってはいないと深く信じることができます。

もちろん自分が最初にしようと思ったからには薄くは正しいと思っているんでしょうが、ほんとうに正しいことかどうか、正しくないとしても自分が求めている結果を本当に生み出すものなのかということを考えてしまいます。物事を疑いもせずに鵜呑みにしてしまうことは、自分が何も考えを持っていないのと同じだと思うからです。

もし客観的に考えた上で違う結果を招いてしまい、例えば怒らせるはずでは無かったを怒らせたとしたら、自分の判断がどこか間違っていたのだと即座に自分の過ちを認めることができると思います。

逆に自分勝手な人は自分のことを疑ってないんだろうなあと感じます。
その人はそれまでにミスをしたことがないかもしくは客観的に物事を見るには能力不足ということなんでしょう。自分の思う様な結果と違っただけで不機嫌になる人なんて最初から何も考えていない人よりも迷惑です。


しかし私もいつでも客観的に自分を見つめることはできるません。

それはまず感情が出てくるときです。
私がここでいう感情と呼ぶものは

打算がなく、流されたわけでもない

純粋な自分の感情
のことです。

当然のことですね。例えば、自分より強い相手で自分が負けると解っているにもかかわらず、相手を殺すのも厭わない勢いで殴りかかってしまうのが打算の無い怒りです。
少しでも打算があるのならそれは客観性が既に入り込む余地が存在しているということです。にも関わらず勢いに任せて怒ることで状況を悪化させたとすれば、それはどうしようもないものではなく、単に考えが足りないだけです。
周りの状況に流されて生まれた感情というのも、周りの状況を認識している時点で少なからぬ理性が既に働いていると言えます。

私はそのような自分で抑えようのない感情というものは、そう簡単に体験できるものではないと思います。そしてそういうものこそが本当の感情であり、たとえそれが喜怒哀楽なんであれ

人間が持つ一番素晴らしいもの

に感じられ惹かれます。

そしてそれ以外のもの、理性による制御が含まれながらも能力が不足して起こった、感情のようなものは

嘘の混じった偽りの感情

に感じられ嫌悪を感じます。
念のため言いますと、怒ったフリというものはまるっきり理性なので、好き嫌いはまた個別に判断するとしてここに言う偽りの感情には入りません。私もよくあることなんですが、自分がそんなに急ぐ必要もない時のに行動の遅い人にイラついたりすることが、自分を制御する能力が不足しているだけの、なんの意味もない無駄な偽りの感情なのです。


そしてまた、信じることには疑うこと以外にもう一つ方法があります。それは

信じると決めることです。

私にとっては友達に対しての感情がこれに当たります。
自分さえいつも正しいとは思えていない私が、友達はいつでも正しいと信じることはまず不可能です。
もちろん疑問に思うことは友達ですから遠慮せずに言います。
間違っていると思うことも当然遠慮せずに忠告しあうのが友達です。
そこは個人個人の考え方が違って当然。
しかし、自分には全く判断できないことなのであれば信じたい!
いや、信じるのだ!
もし友達が正しくなかったとしても、自分は友達の味方で良いと思うのだ!
もし友達が自分に嘘をついていたとしても、何かしらの理由があったと思うのだ!
普通にしてりゃあ信じるも信じないも関係ないし、考えることもないし、どうでもいい!

そう思えないのなら

信じれるまで疑いつくすしかない!



人を疑うことは別に悪いことだとは思いません。自分のことまで全く疑わない人の方がどうかいう気がします。しかし人を疑うのは誰かを信じるためというのでなければ少々寂し過ぎるのではないかと私は思うわけです。
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